新方川 (その3) (その1)(その2)
撮影地:埼玉県越谷市、吉川市
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(2)大吉調節池(左岸から) 越谷市大吉 写真(1)から900m下流。大吉管理橋(新方川左岸の越流堤の 上に架けられている)から撮影。大吉調節池は新方川流域の 浸水被害を軽減するために、第二次激甚災害対策事業で 昭和61年(1986)に建設された。40万m3の洪水調節容量を持つ。 周辺は親水公園として整備されていて、自然が豊かで野鳥が 非常に多く棲息している。右岸では御料樋門を経由して、 御料堀(旧大沢落)が新方川へ合流している。 自然排水ではなく、ポンプを併設した強制排水である。 |
(3)定使野橋の付近 (右岸から) 左岸:越谷市大吉、右岸:東大沢三丁目 写真(2)から400m下流。定使野橋(注2)の直上流では 逆川(葛西用水)が、新方川の下を伏越で横断している。 ここは元々は大吉伏越(煉瓦造)と呼ばれ、新方川が 逆川の下を潜って横断していたのだが、新方川の規模が 大きくなりすぎたために、現在の形態へと改められた。 写真の中央に見えるのが伏越の呑口、左はキャンベル タウン野鳥の森。なお、定使野橋の左岸橋詰には 新方堀改修記念碑(昭和8年建立)が建っている。 |
(4)越谷総合公園の付近 (上流から) 左岸:越谷市増林三丁目、右岸:増林 写真(3)から1.9Km下流。東橋から増森橋までの約700mの 区間の左岸側には公共施設が立ち並ぶ。写真の左端に 見えるのは、越谷総合公園の南側に隣接したREUSE(リユース: ごみ処理施設)とその展望台。この付近の新方川の堤防は、 かつての千間堤(注3)だが、現在は川裏が緩傾斜となっていて、 堤敷には遊歩道や階段護岸などの親水整備が施されている。 下流の新田橋の左岸へは、掛樋堀(逆川から分水する、 用水路)の流末が合流している。 |
(5)昭和橋の付近 (上流から) 左岸:越谷市増森二丁目、右岸:増森 写真(4)から1.4Km下流。この付近の堤防天端間の距離は 約50m。新方川の第一橋(最下流の橋)が昭和橋。 とは云っても終点から1Kmも上流だが。昭和橋の下流 左岸には増森排水機場があり、幸丑堀(古利根川から 取水)の流末が合流している。この付近は古利根川 (写真の左方向)と元荒川(右方向)に囲まれているが、 その一帯(増林村、増森村、中島村、花田村、東小林村)は 昭和29年まで南埼玉郡増林村だった。増林村の道路元標は 今もなお現存している。なお、昭和初期まで新方川は 昭和橋の500m上流付近で南流し、元荒川へ合流していた。 |
(6)新方川の終点 (右岸から) 左岸:越谷市中島、右岸:吉川市川野 写真(5)から1Km下流。新方川は中川の右岸へ合流して 終わる。写真の手前が新方川、奥が中川。 合流方式は導流堤(瀬割堤)を設けた自然合流である。 新方川の左岸側は導流堤があるので、アクセスは 良いのだが、右岸側には河畔林が繁茂し、はっきりとした 道路はない(地元の人はこの地区を堤外と呼んでいた)。 そのためか、中川への合流地点の右岸には野鳥のコロニーが 形成されている。なお、昭和橋から下流の約1Kmの区間の 新方川は古利根川の旧流路を改修したものである。 |
(注1)平方落は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
埼玉郡平方村(11巻、p.186)に、”平方落堀:字東田沼田の両所より起こるもの
会合して一派となりて船渡村の界に入る 六十余町の田を灌ぐ”と記されている。
当時は60haの田をかんがいする農業用水路であり、取水先は古利根川だった。
(注2)定使野橋が架かる県道19号越谷野田線は野田街道とも呼ばれ、
かつての旧国道16号線である。定使野とはこの付近の小字名。
なお、県道19号線は、かつて元荒川が越谷市大沢一丁目から花田三丁目の
方向に向かって流れていた頃の元荒川の左岸堤防でもある。
県道19号線の南側には花田古川と呼ばれる元荒川の旧流路の
痕跡が、わずかながら残っている。
そして県道19号線の北側に沿って流れるのが逆川(葛西用水)である。
現在、逆川の沿線は逆川緑道として整備されているが、古利根川から
取水する逆川はかつては水害も多かったのだろう。付近には通水の安全と
水害防止を祈願したのだと思われる水神宮が数多く分布している。
(注3)千間堤は武蔵国郡村誌の埼玉郡増林村(11巻、p.150)に、
”千間堤:千間堀の両側に沿ひ 村の西方大吉村界より南方増森村界に至る
長一里二十間馬踏九尺堤敷四間高一丈 修繕費用は民に属す”と記されている。
同書にはこの付近の千間堀の川幅が、四間三尺(約8.1m)とあるので、
馬踏九尺(堤防天端幅が約2.7m)、堤敷四間(堤防の敷幅が約7.2m)、
高一丈(堤防の高さが約3.0m)の千間堤は、千間堀の河道からすれば、
かなりの規模の堤防だ。村民が築き上げ、長い時間と多大な労力を
かけて維持管理していた堤防である。