越辺川 - 毛呂川の合流から宮下橋の付近まで  [越辺川のページ一覧

 越辺川(おっぺ)は、埼玉県入間郡越生町の越上山(おがみ、標高566m)を源流とする、
 延長約35Km、流域面積176Km2の荒川水系の一級河川。入間川の最大支川(流域面積)であり、
 毛呂山町から下流では、越辺川が比企郡と入間郡の郡界となっている。
 越辺川の管理起点は越生町黒山の黒山温泉付近に設置されている。藤原川(黒山三滝付近が
 源流)と越辺川が合流する地点である。そこから越生町
(おごせ)、毛呂山町(もろやま)、鳩山町、
 東松山市、坂戸市と蛇行を繰り返しながら東へ向かって流れ、川島町と川越市の境界付近で、
 
入間川に合流する。そして入間川は川越市で荒川と合流して、最終的に荒川は東京湾に流れ込む。

 越辺川には上流部では様々な沢(渓流)、下流部では農業・都市排水路が合流している。
 越辺川の
主な支川は上流から、藤原川、竜ヶ谷川、麦原川、上殿川、渋沢川、毛呂川、鳩川、
 高麗川、都幾川、飯盛川、大谷川、小畦川である。
 河川延長だけ見れば、高麗川と都幾川は本川である越辺川と遜色がない。

 越辺川の取水堰:
 越辺川は古くから農業用水の水源として開発されてきたようで、河道には非常に多くの
 取水堰が設けられている。そのほとんどは今はコンクリートで改築されているが、
 昔は蛇籠に石を詰め込んだ素朴な形態だった。越辺川の蛇行が終了した直後の
 地点に設置され、斜め堰が多いのは、取水樋管への自然流入を容易にするためだろう。
 越辺川の取水堰の形式はどれも固定堰(洗い堰)であり、しかも堰高は意外に低い。
 そのため、上流側で流水が完全にせき止められることはなく、下流側との取水量の
 格差はあまりないと思われる。固定堰だから河床勾配が急な地点では、床止め工としても
 機能し、河床が安定する(笑)。いずれにせよ、越辺川の取水堰の形式には、
 長い時間をかけて培われてきた越辺川の水利慣行が凝縮されている。

 越辺川の筏流し:
 越辺川では享保年間(1720年頃)から大正初期頃まで、筏流しが行なわれていた。
 明治43年(1910)に埼玉県が山林局長へ提出した、河川流材調(埼玉県史
 資料編21、p.517)によれば、
 越辺川(入間川水系)での筏流しの開始は、元禄年間(1688-1703)からであり、
 荒川本川の寛文年間(1661-1672)よりも後発である。
 現在の越辺川は水量が少なく
(注1)、浅瀬も多いので、ちょっと想像が付かないが。
 筏は越辺川を下り、入間川と荒川を経て、東京の南千住まで運ばれた。
 
松貫橋(毛呂山町川角)や今川橋(鳩山町今宿)付近の河川敷には、筏の係留地があり、
 そこで筏の組み立てなどがおこなわれた。今宿には河岸場があり、筏宿も兼ねて栄えていたようだ。
 筏流しが盛んだった頃には、上述の堰を西川材で組まれた筏が乗り越えて行ったのである。
 越辺川は木の道でもあったのだ。大正三年(1914)三月の埼玉日日新聞には、当時の筏流しの
 様子や林業の状況が、[西川林業の沿革]と題して8回に渡って、連載が組まれていて
 とても参考になる
(埼玉県史 資料編21、p.876-886)。

 越辺川の河岸場:
 越辺川には河岸場が多かった。本川である入間川に比べると、数が多いだけでなく、
 かなり上流にまで存在したことが特徴である。入間川の河岸場は伊草と老袋のみだ。
 しかも厳密には、老袋は昭和初期以前は荒川の河岸場である。
 越辺川流域の村々と江戸とを結ぶ水上輸送が展開されていて、その中継基地が河岸場だった。
 流域の特産物は河岸場へ集められ、そこから江戸へ送られた。江戸からは生活物資や
 肥料などが河岸場へ荷揚げされた。河岸場は渡し(渡船場)を兼ねることもあった。
 渡しは近代的な橋が架けられるまで、唯一の渡河手段だった。越辺川の下流部には
 渡し場の面影を残す、
3基の冠水橋(河川敷に設けられた橋、潜水橋)が現存している。
 冠水橋は
越辺川の支流である高麗川と都幾川でも多く見られる。

 越辺川の堤防:
 中流部の石今橋の付近(鳩山町石坂〜坂戸市今西)には、約1.5Kmにわたって、
 霞堤(古い形態の不連続な堤防)が見られる。これは遊水池と排水樋門を兼ねた堤防であり、
 堤防には開口部が意図的に設けてある。開口部は越辺川の洪水流が堤防から堤内地へと
 逃げ脱せる経路となっていて、滞留した水は洪水が収まってから、自然と越辺川に
 流れ込む。越辺川へ洪水流が集中するのを防ぎ、流量の調整をする仕組みとなっている。
 この付近は洪水のたびに越辺川の流路が大きく変動していた所なので、力ずくで洪水を堤防の中に
 押し込めようとはせずに、ある程度、洪水を受容して自然の流れに任せる形態が採られたといえる。

 なお、都幾川の合流から下流の区間では、越辺川の右岸側の地区(坂戸市赤尾、小沼、横沼、
 紺屋などは、古くから水場と呼ばれ、洪水常襲地帯だった)で外水による浸水被害
 内水による湛水被害が顕著だったが、現在は支川である飯盛川や大谷川の合流地点には、
 被害軽減のために、排水樋門と排水機場が建設されている。
 また、越辺川の合流先である入間川にも河川改修が施された。

 毛呂川の合流
(1)毛呂川の合流(右岸から) 毛呂山町岩井
 越生町との境界付近、毛呂川(一級河川)が越辺川の
 右岸へ合流する。毛呂川の起点および水源は越生町との
 境界付近:毛呂山町滝ノ入にあり、越辺川の起点に
 ほど近い。写真の手前が毛呂川、奥が越辺川。
 合流地点には久保堰(コンクリートの固定堰)が設けられ、
 右岸へ農業用水を取水している。その
取水樋管
 大正8年(1919)竣工と古い。また、ここから800m南西では
 東武越生線が毛呂川を横断しているが、
毛呂川橋梁には
 ポーナル型という明治時代の桁(高野鉄道の桁を転用)が
 使われている。なお、ここから400m上流では柳田川が
 越辺川の右岸へ合流している。
   越辺川橋の付近
  (2)越辺川橋の付近(上流から)
   左岸:毛呂山町箕和田、右岸:毛呂山町岩井
   (1)から300m下流。写真は越辺川橋(県道343号岩殿
   岩井線)からの展望。橋の下流側には大きな洲が形成され、
   澪筋は二条となっている。この地点には昭和初期まで橋はなく、
   最初の橋は昭和10年(1935)に架けられた。農村漁村匡救土木事業
   (失業対策)として、岩井・箕和田間の道路改修が実施され、
   それに伴い、木の橋が建設されたとの記録がある→毛呂山町史、p.792
   越辺川橋から上流へ50mの左岸には、農業排水路が合流している。
   合流地点付近は親水護岸が施され、[花咲く小道]と称された
   遊歩道が整備されている。この農業排水路には箕和田湖を
   水源とする農業用水の流末が流れている。

 大谷木川の合流
(3)大谷木川の合流(上流から) 毛呂山町西戸(さいど)
 (2)から1Km下流。松貫橋の下では大谷木川(おおやぎ、
 一級河川)が越辺川の右岸へ合流している。大谷木川は
 鎌北湖を水源とし、延長は約6.5Km。農業用水路として
 使われていて、用水の一部は葛川へ分水されている。
 鎌北湖(山根貯水池)も失業対策事業で昭和10年に
 建設された。それにしても、大谷木川も越辺川も水量が
 少ない。ここから400m上流の右岸は大きな淵があり、
 重殿淵と呼ばれている(注2)。なお、西戸地区は古くは
 道祖土と表記していたとの記録が残っている。さいたま市
 緑区にも道祖土という地区があるが、その発祥地は
 比企郡八ッ林村(現在の川島町八ッ林)だという。
 →武蔵国郡村誌
 5巻、p.89
 
塞の神(さいのかみ)を道祖土神と書くこともある。 

   
松貫橋の付近
  (4)松貫橋の付近(上流から)
   左岸:毛呂山町西戸、右岸:毛呂山町川角(かわかど)
   (3)の下流。松貫橋は昭和43年竣工なので、それほど
   古い橋ではないが(長さは約70m)、幅員が狭いために
   車幅1.9m以下、重量2t以下の通行規制がとられている。
   松貫橋の下流に見えるのは西戸堰(農業用水の取水堰)。
   形式は
斜め堰であり、左岸へ取水している。堰高は意外に低く
   1mに満たない。松貫橋の下流右岸には、広い河川敷が
   展開しているが、そこはかつて筏の組み替え所だったそうである。
   毛呂山町の区域では 越辺川の両岸には雑木林(人工林は
   あまり無いようだ)が形成されていることが多く、水辺には
   近づくのが困難で親水箇所は少ない。そのためだろうか、
   松貫橋の下流左岸には、越辺川の堤内地に
   西戸親水公園が設けられている。

 宮下橋の付近
(5)宮下橋の付近(下流から)
 右岸:毛呂山町川角、左岸:毛呂山町西戸
 (4)から600m下流。越辺川は川角地区の北端を大きく
 蛇行している。川角とはその様子に由来した地名だろう。
 川角地区は越辺川の段丘崖に位置する。その崖上
 (比高は約5m)に鎮座するのが川角村の村社
 八幡宮。
 参道入口には文政4年(1831)建立の道祖神が
 祀られている。これは文字塔であり、坂戸道と川越道への
 道標を兼ねている。また、八幡宮には文政12年(1839)
 建立の芭蕉の句碑もある(注3)。この付近には
 珍しい石仏が多く、八幡宮から150m南の淨光寺には、
 文化九年(1812)建立の
石橋供養塔もある。

   
鎌倉街道上道と延慶板碑
  (6)鎌倉街道上道と延慶板碑 毛呂山町川角
   (5)から800m下流。 越辺川の右岸はスギの林となっていて、
   その中には幅2m程度の小道が堀割状に続いている。
   鎌倉街道上道(かみつみち)の脇道に比定されているようだ。
   また、この付近には崇徳寺跡もあり、写真の右端に
   見える、延慶板碑(埼玉県指定文化財)が建っている。
   これは延慶三年(1310)の銘がある、高さが3m近い、
   大きな青石塔婆。崇徳寺に建っていたものだという。
   なお、鎌倉街道上道の越辺川渡河地点は、ここから
   400m下流の堂山下橋の付近だったようである(注4)
   この付近には塚原という小字があり、ここから東側の
   毛呂山養護学校脇のスギ林の中には川角古墳群がある。

(注1)越辺川は平常時の水量が以前に比べると、かなり少なくなっているそうだ。
 林業が衰退して水源地である森林の管理が疎かになると、涵養源である湧水が減る。
 一方で、山地の保水力は低下して、少しの雨でも川は急激に増水するようになる。
 また、山地から河川への土砂の流入が増加し、河床は上昇する。
 悪循環の繰り返しである。そして雑草が繁茂し川の自浄能力が低下し、
 水辺の景観は悪化する。挙句の果てには生活排水が川の水源となる。
 川を育むのは森林である。
 余談だが、このページで紹介した一帯は、昭和30年(1955)まで、
 入間郡川角村だった。大正時代に設置された
川角村の道路元標
 今も残っている。川角村の旧村域には
古い火の見櫓も数多く現存する。

(注2)大谷木川の合流地点から南西へ2.3Km、毛呂山町岩井には
 出雲伊波比神社(いずものいわい)がある。延喜式内社(延喜式神名帳に
 記載された古社)なので、創建は延喜年間(901-921年)以前である。
 出雲伊波比神社には、毛呂の流鏑馬と呼ばれる神事が伝わるが、
 そのさいに禊を行う地が、越辺川の重殿淵(じゅうどの)である。
 重殿淵は岡本団地(前久保)の北側、箕和田、西戸との境界付近に位置する。
 重殿とは変わった地名だが、これと似た通殿(づうどの)、頭殿(づとの)、
 蔵殿(ぞうどの)、尉殿(じょうどの)、上殿、ジュードンなどの地名や神社が、
 
埼玉県には川沿いに数多く分布している。
 水に関する祭祀が語源となった地名だと考えられる。

(注3)この句碑は毛呂山町指定有形文化財である。台座の形態から、
 当初から八幡宮に置かれたのではなく、どこか別の所から移築されたと推測される。
 句碑は表に”道傍のむくげは馬に喰われけり 芭蕉翁”とあり、左側面には
 三世春秋庵連中と記されている。この付近は江戸時代末期に俳諧が
 盛んな土地柄だったという。写真(4)の松貫橋の左岸、左岸、西戸地区の
 国津神神社にも芭蕉の句碑がある。埼玉県には芭蕉の句碑が意外に多く、
 全国的にもベスト3に入る数が存在する。→
荒川沿線の芭蕉句碑

(注4)堂山下橋は川角と大類(おおるい)の境界付近に位置する。
 付近に存在する堂山下遺跡は鎌倉街道上道の苦林宿跡だとされている。
 なお、大類という変わった地名は、武蔵七党(中世の武士団)の
 一つである児玉党の大類行綱が土着した地だったことに由来するという。
 →入間郡大類村(武蔵国郡村誌
 5巻、p.25)
 その大類には鎌倉道という小字がある。
 前掲書には”西方
 川角村の境を云ふ ここに鎌倉への古道あり〜中略〜
 今も此細径を北へ往は越辺川を経て児玉郡本庄宿へ通ぜり”と記されている。
 鎌倉街道上道の路線は、越辺川を渡り本庄宿へ向かっていた。
 一方、南は毛呂山町市場を抜け、坂戸市森戸で
高麗川を渡河していた。

(補足)越辺川の流域では金属の精錬が行われていた
 武蔵国郡村誌や新編武蔵風土記稿を調べてみると、越辺川の
 上流部(越生町から毛呂山町、鳩山町)には、鍛冶などの小字名が
 広範囲に分布している。例えば越生町成瀬に鍛冶屋と金棒、越生町大谷に鍛冶、
 越生町上野に鍛冶屋敷、毛呂山町滝ノ入に金山、毛呂山町毛呂本郷に金塚、
 越生町如意に金堀谷ツ(かねほりやつ)、鳩山町小用にかねやつ、からみ塚、
 鳩山町熊井に鍛冶ヶ谷戸、毛呂山町苦林に鍛冶ヶ谷、鶴巻である。
 小用のからみ塚とは、金属を精錬したさいの残りカスの捨て場所のこと。

 このような地名から越辺川の上流域には、金属の生産や加工に従事した人々が
 定住していたことが予想できる。その時期は不明だが、仮に近世以前だとすると
 これらの地域は郷庄では、毛呂郷越生庄、越生郷堀江庄、浅羽郷山田庄などに属した。
 武蔵七党の一つである児玉党(越生氏、入西氏など)が支配していた。
 在地の豪族の軍事的基盤(刀、鎧などの武器)と生産基盤(鍬や鎌などの農具)を
 支えていたのが、鍛冶屋の存在だったと思える。ただし、以上はあくまでも
 根拠に乏しい想像である。なお、これらの地域の地名の特徴として、
 鍛冶に関するものが多いことから、金属の精錬を行っていたのは鋳物師ではなく、
 主に鍛冶屋だった可能性も考えられる。製鉄技術的には鋳造ではなく鍛造である。
 製鉄の原料である鉄は山から掘り出したか、あるいは山砂から砂鉄を
 採取したと思われる。越辺川の上流部は砂よりもレキが多く分布しているので、
 川砂から砂鉄を採取するのは困難だったと推測される。

 一方、坂戸市の市域には新堀に鍵作、戸口に神名(かんな)、石井に鍛冶屋舗、永金、
 塚越にかね山、かねい塚、という地名があり、新堀には金山神社、
 赤尾には金山彦神社が祀られている。両社は金山彦命(火の神の一種)を
 祭神としていて、鍛冶、鋳物師達の信仰が厚い神社だとされる。
 赤尾の白山神社には一目連が2体、祀られている。
 一目連とは天目一箇神を祭神とし、この一つ目の神様は作金者であり、
 金属精錬に必要な風と火と水を司ると信じられている。
 また、赤尾の対岸の川島町長楽には金山という小字がある。
 金山は坂戸市中小坂(越辺川の支川である大谷川の右岸)にも存在する。
 金山とは金属を精錬したさいの残りカスを捨てた場所を指す。
 実際に中小坂の上谷遺跡からは鉄滓、紺屋の丸山遺跡からはフイゴの口が
 出土したという(坂戸市史調査資料第14号、p.24)。
 横沼や紺屋では越辺川の周辺には、白髭神社が分布している。
 さらに、赤尾の北西、越辺川の左岸に位置する東松山市正代の御霊神社には
 鎌倉権五郎景政が祀られている。この片目の坂東武者も金属の精錬を
 職とする人々から信仰されていた。

 これらのことから、越辺川の周辺地域には鍛冶屋(金属の精錬や加工を
 生業とする人々)が広範囲に居住していたと推測できる。
 その時代は不明だが、新編武蔵風土記稿(江戸時代末期に編纂)には
 ”昔鍛工住し故にこの名あり”などと記されていることから、
 おそらく近世以前だと思われる。
 越辺川から採取した砂鉄を原料とし、流域の森林からは燃料が供給され、
 広範囲な集落で金属の精錬(たたら製鉄だろう)が行われていたようである。
 金属製品を大量に運搬するさいには、越辺川が川の道として利用されたことだろう。

 同じ越辺川の流域ではあるが、上流部と坂戸市の市域では、河川の流況や
 自然地形が制約となり、土地利用の形態はかなり異なる。
 上流部は丘陵地帯であり、越辺川の流域には主に森林と畑が広がっている。
 一方、坂戸市では越辺川の流域は、かつては勝呂郷と呼ばれ、台地には
 古墳や古寺跡が分布し、周辺部には広大な水田が開けている。
 例えば、旧.入西村の一帯には条里(中世の土地区画制度)がしかれていた。
 越辺川の上流と下流では村落形成の条件、産業成立の基盤が
 まったく違うのである。このことから、越辺川の流域で金属を
 精錬していた(と思われる)集落は、上流と下流では
 異なる氏族で構成されていた可能性が高い。


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