高野戸川 (たかやど) (その1)(その2)
撮影地:埼玉県北本市、桶川市
高野戸川は延長約3Km(起点が不明なので推定)の中川水系の河川。
源流(最上流)は北本市の南部にあり、都市排水と農業用水を集め、南東に向かって流れ、
桶川市に入ってからは流路を次第に北へ変え、最後は桶川市赤堀二丁目〜舎人新田で
赤堀川の右岸に合流する。取水施設は設けられておらず、完全な排水専用河川である。
現在は高野戸川という名称だが、以前は高谷堀(高埜堀)と呼ばれていた(注1)。
なお、高野戸川の右岸側が中川水系と荒川水系の分水界となっているようで、
桶川市坂田と小針領家の雨水は、高野戸川と芝川(荒川水系の一級河川)の両方へ流れ込む。
(1)高野戸川の源流1(上流から) 北本市中丸八丁目 国道17号線の加納交差点から北東へ100mの地点。 写真の右側は桶川市加納である。この排水路の名は 梅沢雨水幹線。北本市中丸五丁目付近から南東へ 向かって流れ、国道17号線を横断して来る。この地点の 水路幅は5.6m。写真中央の橋の付近で、この水路と 源流2が合流している。おそらく、その地点が高野戸川の 起点であろう。なお、梅沢雨水幹線の前身は谷尻堀、 源流2の前身は神明堀であるようだ(注2)。 |
(2)高野戸川の源流2(下流から) 北本市中丸八丁目 写真(1)から北東へ200mの地点。この排水路は延長が長く、 中丸ふれあい通りの東側に沿って、南へ向かって流れている。 この地点から水路を上流へ遡ると、約2Km北の北中丸交差点 (県道311号線)の付近まで続いている。この水路には元荒川の 宮地堰から取水する新谷田用水の流末が流れているようだ。 北本高校の南側で別れた、もう一方の流れは斜落(排水路)となり、 赤堀川へ合流している。なお、北中丸交差点から400m西側には 北足立郡中丸村の道路元標が残っている。 |
(3)県道12号線を横断(上流から) 桶川市加納 写真(1)から500m下流、べに花ふるさと館の南側。 高野戸川の川幅は約9mに広がる。掘り込みは深く、 両岸はコンクリート護岸であり、周囲には住宅が立ち並ぶ。 典型的な都市排水路の景観だが、200m北を高野戸川と 並行する道路は古道であり、県道12号線の[天神入口] バス停付近には天神道の道しるべ(嘉永二年(1849)建立 の道標)が残っている。天神とは道しるべから1.2Km 北西に位置する加納天満宮のこと。 |
(4)べに花ふるさと館 桶川市加納 ヒマラヤ杉の巨木と白壁の長屋門。紅花の栽培で栄えた旧家を 象徴した佇まいだ。明治時代の民家に使われていた部材を 用いて建て替えたものだという。べに花ふるさと館は 市民文化センターとして位置づけられているようだが、 市民以外の利用も可能だ。母屋では手打ちうどんが食べられる。 かつて、この付近は紅花(べに花)の産地であり、荒川の舟運を 使って、江戸まで運んでいたそうである(注3)。 |
(注1)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の足立郡加納村(3巻、p.188)に記された、
高埜堀(たかや)が高野戸川のことである。高埜を高谷と表記することもあったようだ。
”高埜堀:深二尺より四尺巾二間 村の東南坂田村より来り東北端にて赤堀に合す
長四百四十三間 田四十一町十一歩の悪水を流下す”
悪水を流下すとあるので、当時から加納村の付近では排水専用河川だったようだ。
(注2)武蔵国郡村誌の足立郡中丸村(3巻、p.195)に谷尻堀(やしり)と神明堀の記述がある。
”谷尻堀:深一尺巾五尺より九尺 村の西方元宿村より来り字谷尻原の中央を流れ東南加納村に入る
長八百六十間 田八町四反歩の用水に供す”
”神明堀:巾三尺より六尺 村の東方字五反田より起り東南加納村界に至て谷尻堀に合す
長二百八十七間 田三町七反歩の用水に供す”
(注3)この地でベニバナ(紅花)の栽培が盛んであり、それが重要な物産品と
なっていたことを示す好例が形として残っている。、
稲荷神社(桶川市寿二丁目)の石灯籠(桶川市指定文化財)である。
これは安政四年(1857)に紅花商人たちが寄進したもので、
表面には”献灯 紅花商人中”とあり、16名の名前が刻まれている。
紅花は荒川の高尾河岸や太郎右衛門河岸から舟運によって江戸へ搬送された。