利根川 (利根川橋〜東北新幹線) [利根川のページ一覧]
左岸:茨城県古河市、猿島郡総和町 右岸:埼玉県北葛飾郡栗橋町、茨城県猿島郡五霞町
この区間の利根川(赤堀川)は、渡良瀬川(太日川)と常陸川を結ぶために、江戸時代以降に
開削された一種の放水路。その遠大な計画のための第一歩として、元和七年(1621)に赤堀川は
大山沼や釈迦沼、水海沼へと繋げられた。赤堀川は開削当初の川幅が7間(約13m)だったと
いうから驚きだ。そのため、利根川の水は全量が赤堀川へ流下せずに、赤堀川が呑みきれない水は
氾濫し、南下して権現堂川を形成したのだという(白岡町史 通史編 上巻、p.364)。
つまり、権現堂川は赤堀川の第一期開削が、失敗に終わった副産物なのである。
↑利根川橋の付近(右岸上流から) 右岸:栗橋町栗橋、左岸:古河市中田 JR東北本線の利根川橋梁から600m下流には 利根川橋(国道4号線)が架かる。日光街道の栗橋宿と 中田宿を繋ぐ要所でありながら、ここには長い間、橋は なく渡船(注)のみで、栗橋には関所が置かれていた。 利根川橋の上流左岸に設けられた赤い橋は水位観測計。 観測計の側面には既往最大水位の履歴がペイントされて いる。昭和22年のカスリーン台風時の最高水位は 9.17m(利根川の現在の計画高水位は9.9m) |
←利根川水位表示塔 久喜市東一丁目 久喜駅(利根川橋から南西へ9Km)の 東口広場にそびえ立つ、この塔は [ときの塔]と命名されている。 高さが13mあり、最上部の赤い線が 利根川橋付近の堤防天端高 (T.P.22.28m)を示している。 その下の赤い線が計画高水位、 黄色い線が警戒水位である。 一番下の赤い線は、カスリーン台風時の 浸水位。さらに、側面の黒い部分には 利根川の現在の水位がリアルタイムで 電光表示される。 この水位表示塔を眺めていたら、 私達は利根川の高い堤防(というより 高すぎる)に守られていること、反面、 非常に危うい土地で生活していることを、 改めて思い知らされた。 なお、栗橋町役場の敷地内にも 川楽版(かわらばん)と命名された、 利根川水位表示塔が設けられている。 |
↑宝治戸池 栗橋町北一丁目 利根川橋の右岸橋詰から、400m西の住宅地内に位置 する。外周約350mの池だが、自然の湖沼ではなく、 寛保二年の利根川の洪水によって堤防が破堤したさいに 形成された落ち堀(切れ所跡)である。宝治戸とは この付近の旧村名。なお、栗橋駅の付近には 静御前の墓がある。現在の伊坂、松永、間鎌地区等は かつては北葛飾郡静村であった。 |
←電柱に記された浸水位 栗橋町中央一丁目 栗橋町の至る所で目にするのが、 赤い線が付けられた電柱。 これは国土交通省の利根川 工事事務所が設置したもので、 カスリーン台風時の浸水位を 示している。 栗橋町は利根川堤防の 破堤地点に隣接するだけに、 浸水位も写真の様に高い。 平屋だと完全に水没である。 これと同じ様式の浸水位が 記された電柱は、大利根町、 鷲宮町、久喜市、幸手市、 杉戸町にもある。 |
↑JR東北新幹線 利根川橋梁の付近 (上流から) 左岸:茨城県古河市大山、右岸:猿島郡五霞町川妻 利根川橋から1.3Km下流。この付近から利根川の 両岸は茨城県となる。茨城県と埼玉県の県境を規定する のは利根川ではなく、権現堂川(旧利根川)だ。 県境には利根川東遷の歴史が刻み込まれている。 権現堂川は昭和初期まで、この付近で利根川から 分岐していたが、利根川改修工事で廃川となり、 現在は跡地が多目的調節池と中川へ変貌している。 利根川の右岸堤防に伏せ込まれた権現堂樋管から 調節池へ取水している。 |
↑釈水沼排水機場の付近(右岸から) 左岸:茨城県猿島郡総和町前林、右岸:猿島郡五霞町両新田 東北新幹線から1.5Km下流。引堤工事がなされているのだろう、 利根川には広大な河川敷が展開する。写真上部に見えるのは、 左岸の釈水沼排水機場。900m上流の左岸にも大山防除排水機場が 設けられている。かつて、古河市と総和町の境界付近には、 大山沼、釈迦沼、水海沼といった広大な湖沼が存在していたが、 昭和初期に実施された利根川改修工事によって河川敷の中へ消えた。 釈水沼排水機場の釈水とは、釈迦沼と水海沼を合わせた命名だろうか。 なお、この付近は権現堂川からの分水路:佐伯渠(注2)が あった地点でもある。 |
(注)この渡船場とは房川(ぼうかわ)の渡である。明治9年(1876)の調査を基に
編纂された、武蔵国郡村誌の葛飾郡栗橋宿(14巻、p.424)に、その記述がある。
”房川渡:陸羽街道に属し 宿の東方 利根川の上流にあり 渡船五艘 官渡”とある。
陸羽街道とは日光街道のことである。さらに古くは鎌倉街道の中道であった。
そんなわけで、栗橋駅の北側には静御前の墓がある。
義経を慕って東北へ赴く途中、栗橋宿で義経の訃報を受け、
この地で尼となり死んだと伝えられている。
栗橋には江戸時代から幕府公認の河岸場が設けられていたが、
明治初期になっても栗橋河岸(利根川橋の下流右岸)の規模は
かなり大きかったようだ。前掲書には、”高瀬船十艘(七十石積二艘、五十石積八艘)、
小高瀬船二艘(十五石積)、似ひらた船八艘(七十石積四艘、五十石積二艘、
四十石積二艘)、十石積船七艘”と記されている。
七十石積の高瀬舟(大型の帆船)だと、米俵が175俵(重量は10.5t)も積み込める。
なお、栗橋河岸の対岸には古河・船渡河岸があった。
新編武蔵風土記稿の葛飾郡栗橋宿(2巻、p.219)によれば、
利根川橋の右岸橋詰に鎮座する八坂神社は、以前は牛頭天王社と
呼ばれていた。慶長年間(1596-1614)、利根川の洪水のさいに
元栗橋(茨城県五霞町)の天王社の神輿(みこし)が、この地へ
流れ着いたのを、吉事として祀ったのが起源だという。
神輿は濁流の中を、鯉と亀に守られて漂着したとの言い伝えがあり、
八坂神社の境内には、数箇所に鯉と亀の像が設置されている。
元栗橋は栗橋から南東へ4Km、権現堂川の左岸に位置する。
利根川が増水して流れが逆流した権現堂川が、神輿を栗橋へ運び込んだのだ。
なお、八坂神社には側面に惣船渡中と刻まれた水神宮・大杉大明神が
祀られている。渡船の関係者が水運の安全を祈願して建立したものだろう。
(注2)佐伯渠は五霞町小手指付近で権現堂川から分水し、総和町前林付近で
赤堀川へと流れ込む人工河川だった。権現堂川の放水路として
寛永年間(1640年頃)に開削されたのだが、排水能力が不足しただけでなく、
逆に赤堀川から権現堂川へ洪水が流入してしまったようである。
そのため、明治時代初期には赤堀川への吐口が締め切られ廃川となった。
なお、小手指付近には明治30年(1897)建立の喜多堤碑がある。
碑文には赤堀川と権現堂川の水害から、村を守るために
築かれた堤防(喜多堤)の由来が記されている。