井沢弥惣兵衛の墓
所在地:
埼玉県南埼玉郡白岡町柴山
柴山伏越の北側に隣接する常福寺にまつられている。明和4年(1767)に付近の村民が建立した。
文化14年(1817)には柴山の墓石にならって、さいたま市片柳の万年寺にも追悼碑が建立されている。
弥惣兵衛(やそうびょうえ)に、やそべえ とルビをふった文献もあるけど、どっちが本当なんだろう。
見沼代用水の開削を担当した時、井沢はすでに65歳であり、当時としては非常な高齢である。
しかし見沼代用水の開発に並行して、見沼代用水の周辺地域の湖沼の干拓まで行っている。
さらに飯沼(茨城県)の開墾、手賀沼(千葉県)の新田開発、中川水系(埼玉県)や
多摩川(東京都)の改修なども手がけた。
見沼代用水を開削した享保13年(1728)には、庄内古川(現在は中川)の築堤と流路の延長工事を
担当している。これは埼玉県北葛飾郡松伏町金杉から吉川市上内川にかけての庄内古川を、
江戸川と並行して流れるように大改修したもの。その工事開始地点には井沢の業績を
称えた砥根河重蔬碑(とねがわじゅうそひ、松伏町指定有形文化財)という水神が祀られている。
井沢弥惣兵衛の土木技術は、伊奈家の関東流に対して紀州流と呼ばれ、
井沢は紀州流の開祖といわれる(厳密にはその技術は、紀州藩時代に大畑才蔵から習得している)。
紀州流の土木技術は、現在の河川技術にも引き継がれている。
なお井沢は木曽三川(岐阜県:木曽川、長良川、揖斐川)の改修も計画していた。
木曽三川の分離工事が実現するのは、それから170年後の明治33年(1900年)。
明治政府が招聘したオランダ人土木技術者のデ・レイケの功労によってである。
明治30年に岐阜県知事に就任した湯本義憲が、この事業を推進した。
ちなみに湯本義憲は見沼代用水の元圦(取水口)がある、行田市の出身であり、
生家は見沼代用水のほとりである。埼玉古墳群に隣接した前玉神社の境内には、
湯本治水翁頌徳碑が建てられている。和歌山県出身の井沢弥惣兵衛、
オランダ出身のお雇い外国人、埼玉県出身の岐阜県知事と脈略がないが、
数奇なことに、それらを結んでいるのが見沼代用水である。
(補足)徳川吉宗は破綻した幕府財政の建て直しを図るために、享保の改革を進めたわけだが、
その主眼の一つが新田開発による年貢の増徴収である。新田開発では町人の豊かな財力に
依存した面が大であり、町人の請負による大規模な新田開発を推奨していた。
また、徳川吉宗は身分に関係なく広く有能な人材を求め、幕臣に登用したのだが、
井沢と同時に登用された人物には、大岡忠相(越前守、江戸南町奉行)もいた。
目安箱の設置や小石川養生所の開設などは大岡の業績である。