備前渠用水 (びぜんきょ) 元圦から堤外水路まで  [備前渠用水のページ一覧

 備前渠用水は慶長9年(1604)に開削された農業用水路。
 400年の歴史を持つ埼玉県最古級
(注)の農業用水路である。
 関東代官頭
 伊奈備前守忠次によって計画されたので、この名となった。
 埼玉県の北部では、親しみを込めて備前堀とも呼ばれている。
 ちなみに、備前とは現在の岡山県。渠は堀(人工の川)の中国流の呼び名である。
 江戸時代には備前渠用水は、幕府の直轄管理下(勘定奉行所の所管)にあった。

 伊奈家は代官頭や関東郡代を歴任したが、土木技術にも優れ、河川改修(利根川の東遷
 
荒川の瀬替え)や農業用水路の開削(葛西用水六堰用水北河原用水)など、土木史に
 燦然と輝く業績を残している。その土木技術は江戸時代後半に主流となった紀州流に対して、
 関東流や伊奈流と呼ばれている
埼玉県には、北足立郡伊奈町、備前堤(綾瀬川の締切堤防)、
 備前堀川備前前堀川など、伊奈家ゆかりの地名や河川も多い。
 なお、伊奈家の屋敷跡が北足立郡伊奈町、
伊奈忠次と忠治の墓が鴻巣市の勝願寺にある。

激動の歴史:
 備前渠用水は当初、烏川(からすがわ利根川の支川)が利根川へ合流する地点(現在の本庄市仁手)から
 取水していた。しかし備前渠用水を取りまく自然環境は厳しいものだった。
 寛保二年
(1742)には洪水によって烏川の流路が変ってしまい元圦(取水口)が壊滅、
 同様に明和四年(1767)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けている。
 さらに天明三年(1783)の浅間山の大噴火では、利根川からの土砂が大量に流入して用水路が埋没、
 加えて利根川の河床が火山灰や溶岩の堆積によって異常に高くなってしまい、水害の危険性が
 高くなったことから、寛政五年(1793)には幕府によって備前渠用水の元圦は閉鎖されてしまった。
 なお、備前渠用水の災害復旧工事は寛保二年には岡山藩、明和四年には広島藩による御手伝い普請
 実施されている。天明三年の復旧工事は、幕府による御入用普請(工事費の全額を幕府が負担)が
 行われた(埼玉県史 通史編4、p.588-589)。
 近代には明治二年(1869)に、岩鼻県による備前渠用水の元圦位置変更計画等がもちあがっている。
 このように幾多の困難に直面したが、その都度、新たな取水口を求めて上流へと遡り、危機を打開してきた。
 備前渠用水の取水口は、利根川および烏川の乱流域に位置するので、この状況は昭和になっても
 変わらず、現在の取水形態が確立するまでには、二度も大掛かりな変更工事が実施されている。
 現在の元圦(取水口)は開削当初の地点から、4Kmも上流に移っている。

 備前渠用水は古い(しかも激動の)歴史を持つ用水路なので、周辺には取水の安全と
 洪水被害の軽減を祈願したと思われる水神宮(水の神様)などが数多く祀られている。
 また、備前渠再興記(天保4年:1833)や備前渠改閘碑記(明治36年:1903)等の歴史的な石碑も見られる。
 備前渠用水は江戸時代末期に35年もの間、幕府によって閉鎖(取水禁止)されていた時期がある。
 再興記はその閉鎖が解け、用水路が復活したのを記念したもの。
 改閘碑記は備前渠用水の元圦と矢島堰の改築・竣工記念の碑であり、用水路の歴史が記されている。
 題字は徳川慶喜、碑文は渋沢栄一である。碑文によれば、元圦は明治20年(1887)に本庄市仁手から
 1Km上流の本庄市久々宇(くぐう)へと移されている。これは元圦地点に多量に砂礫が堆積してしまい、
 取水が困難となったためである。移築のさいに元圦(備前渠圦樋)は、お雇い外国人のムルデルに設計を
 依頼して、煉瓦造りで建設されている。これは煉瓦造りの河川構造物としては埼玉県で最初である。
 明治期以降、埼玉県には全国でも類の無い、実に250基以上もの煉瓦造りの河川構造物が
 建設されたのだが、備前渠圦樋はその口火を切ったことになる。 埼玉県の煉瓦水門

備前渠用水の水利組合:
 備前渠用水は開削当初、深谷領3,000石、幡羅郡10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の
 用水路であり、組合は一つだったが万治二年(1659)には、深谷領は矢島堰、幡羅郡は仁手堰、
 忍・羽生領は日向堰の3つの組合に、それぞれ分けられている。このうち忍・羽生領は後に
 北河原用水として独立している。組合とは用水路施設の維持管理のために農民が
 結成した組織であり、費用や労働力負担の公平や公正を期する目的があった。
 なお、幡羅郡(おおむね現在の妻沼町)の堰元は仁手堰だったが、ここは備前渠用水の
 元圦だが同時に取水の難所でもあったので、堰の維持管理には労を要した。
 そのうえ仁手堰は幡羅郡からは実に15Kmも上流だった。そのため、藻刈り(用水路の雑草除去)や
 堀渫い(用水路に溜まった土砂の除去)などの水路維持作業は泊りがけとなってしまい、
 農民の負担は重かったようである。なお、江戸時代には幹線水路や元圦・堰の
 普請(大規模な修理)は幕府がおこなったが、小規模な修理は組合が担当した。
 また、堰元には用水掛(幕府の役人)が置かれ、用水の取水量を決定し、
 堰の開閉操作の権限が一任されていた。

備前渠用水の現況:
 備前渠用水の幹線延長は約23Km、最大通水量は約9m3/sであり、利根川の右岸一帯の約1,400haの
 水田へ用水を供給している。用水路と施設の管理は、備前渠用水路土地改良区がおこなっている。
 現在の備前渠用水は利根川の右岸(埼玉県本庄市山王堂)の元圦から取水(自然流入)した後、
 堤外水路で利根川の河川敷
を流れ(一部、御陣場川の流路を利用)、備前渠樋管(本庄市久々宇)で
 初めて堤内へ出る。備前渠樋管から下流は備前渠川(一級河川)となり、岡部町で
小山川
 (
こやまがわ利根川の支川、一級河川)に合流する。小山川からは深谷市の矢島堰で再び取水し、
 矢島樋門を経由して流路を変え、深谷市上敷免では唐沢川小山川の支川の下を伏越で横断している。
 その後は、小山川の右岸に並行して流れ、妻沼町に入り、最後は余水が福川ふくかわ:利根川の支川、一級河川)へ
 排水されている。福川へ落とされた水は、妻沼町内で北河原用水によって再び取水され、
 行田市、羽生市の水田を潤している。昭和20年代までは北河原用水の余水は、
 さらに下流の
羽生領用水にも使われていた。

 備前渠用水は関東流の伊奈家が開発したのだが、用水路には溜井(ためい:用水路に幅の広い区間を
 設け、そこを貯水池として利用)は設けられていない。また、幹線水路レベルでの用水の反復利用は
 積極的には行なわれていない。送水形態は紀州流の
見沼代用水に似た用排分離であり、
 主要な排水路は福川と
道閑堀どうかんほり福川の支川)である。
 現在でも備前渠用水の水路には、開削当時の面影を残す素掘りの区間が多く、護岸は橋梁や
 水利施設の周辺でしか見られない。その護岸もコンクリートではなく、石積みの比率が高い。


(注)埼玉県に存在する、備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路は以下のとうり。
 
長楽用水:都幾川から取水し、川島町をかんがいする長楽用水は、
 室町時代(1450年頃)に戸守郷の用水路として、現在の水路の一部分が
 開かれたという伝承がある。おそらく都幾川が洪水のさいに形成した氾濫流路跡を
 利用したのだろう。その後、元禄年間(1690年頃)に本格的に整備されたとされる。

 瓦曽根溜井:農業用水の水源開発としては、瓦曽根溜井(ため池)が慶長年間(1596)に
 着手されている。瓦曽根溜井は越谷市の元荒川に設けられたもので、谷古田用水、八条用水、
 東西葛西用水へ分水する。瓦曽根溜井は後に葛西用水へと発展することになる。

 六堰用水:慶長7年(1602)には熊谷市の荒川の左岸に玉井堰用水、奈良堰用水、
 大麻生堰用水が開削されている。これら3堰のかんがい流末は、備前渠用水と同じく
 福川へ落ちる。荒川左岸の最下流に位置し、しかも最大のかんがい面積を有するのが
 成田堰用水だが、この用水路は上記の3堰が開発される50〜100年前には、
 既に存在していたとされる。成田堰用水改修記念碑(熊谷市石原)の碑文には
 延徳三年(1491)に忍城主成田氏によって開削されたこと、荒川から導水して400町余りの
 水田のかんがいに供したことが記されている。成田堰用水のかんがい流末は
 福川ではなく、星川(下流では見沼代用水)と元荒川(忍川を経由して)へ落ちる。
 これらに後に開削された荒川右岸の御正堰用水と吉見堰用水を加え、
 
六堰用水と称される。成田堰用水を除いた5堰の開発は全て伊奈忠次によるものである。


元圦と堤外水路:

 備前渠用水の元圦が、本庄市久々宇(くぐう)から山王堂(さんおうどう)に移されたのは
 昭和5年(1930)の工事によってである。旧元圦地点である久々宇の備前渠樋門の傍らには、
 国利茲興と題された竣工記念碑が建てられている。記念碑は昭和7年に
 備前渠用水普通水利組合が建立したもので、題字は内務省東京出張所長 真田秀吉。
 背面には内務技師 富永正義、阿部清紀の名もある。

 利根川の流路の変遷は甚だしく、しかも大雨で増水するたびに元圦から砂礫が流入し、
 水路を埋没させ、取水困難な状態が続いていた。その打開策として、より上流に
 位置する山王堂が新たな取水地点として選定された。理由は、ここが流路の変動が
 比較的少なく、河川の形態的にも用水の取水に適していると判断されたからである。
 元圦の移動に伴い、利根川の堤外には導水路(堤外水路)が新設された。

 しかしその後、利根川の流路と河床が大きく変動したために(烏川の合流地点に大きな洲が
 形成され、烏川の合流位置が下流に移動してしまった)、再び安定した取水が困難となった。
 昭和34年(1959)に起工し、昭和42年に竣工した県営かんがい排水事業によって、
 現在の水利施設が新設され、新たな取水形態が確立した。この工事の竣工記念碑も
 久々宇にある(備前渠用水改良工事竣工記念碑)。

 備前渠用水取入水門工  ←備前渠用水取入水門工
 (本庄市山王堂:右岸の高水敷から)

 烏川(からすがわ)が利根川に合流した直後の地点。
 ここが備前渠用水の元圦(もといり:取り入れ口)である。
 利根川には取水堰は設けられていない。
 取水方式は、いわゆる、自然流入方式である。
 対岸は群馬県伊勢崎市八斗島(やったじま)。
 八斗島には利根川の洪水の大きさを
 測る量水標が設置されている。
                     取入水門工の呑口→

            ここから坂東大橋の上流側までの
            約600mの区間は暗渠で流れ、開水路と
            なってからは、御陣場川(一級河川、
            利根川の支川)へ合流する。
            坂東大橋から下流の1.4kmの区間は
            堤外水路となり、利根川の河川敷を
            開水路で導水している。
            備前渠用水の取水が利根川の治水に
            影響を及ぼさないように
            配慮がなされている。
取入水門工の呑口
 堤外水路の終点付近  ←堤外水路の終点付近
 (本庄市久々宇:上流から)

 堤外水路の終点には、分流工が設けられている。
 写真の右上は利根川の右岸堤防に設けられた備前渠樋門。
 備前渠用水は備前渠樋門の地点で、利根川の堤外から
 堤内地へ出る。備前渠樋門から下流の区間、小山川に
 合流するまでは、備前渠川(一級河川)に指定されている。

 明治20年(1887)に本庄市仁手から移されて以来、
 昭和5年(1930)まで、この地点が備前渠用水の元圦だった。
 備前渠樋門(備前渠第三樋管)の旧樋管は、備前渠圦樋と
 いう名称であり、備前渠圦樋は明治20年に煉瓦造りで
 改築されている。これは埼玉県で最初に建設された
 煉瓦樋門だった。農業用水路に設けられた煉瓦樋門としては、
 全国的にもおそらく最古の部類であろう。

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