柴山伏越 (しばやま ふせごし) (その1)(その2)
所在地: 南埼玉郡白岡町柴山(伏越入口)〜蓮田市高虫(伏越出口) 〜 柴山伏越の周辺風景 〜
この場所では、見沼代用水は元荒川と立体交差する。
見沼代用水の開削当初(1727年)、ここでは水路の幅をニ分して、一方は元荒川の下に潜らせ、
もう一方は元荒川の上に水路を架けて通水していた。潜らせた方は柴山伏越と呼ばれ、
元荒川の川底を掘り起こして、木製の樋(パイプ:幅4.2m、高さ1.2m)を埋め込んだ施設だった。
上に架けた水路は掛樋(かけとい:掛渡井)と呼ばれる木製の水路橋であった。
掛樋は見沼通船の航路として不可欠なものだったが、元荒川舟運の邪魔になるだけでなく、
木製の橋だったので腐朽しやすく、上を水が流れるので構造的にも弱く、洪水で頻繁に破壊された。
そのため、掛樋は宝暦10年(1760)には廃止され、完全に撤去されている。
掛樋の廃止後は伏越の形式は2連に改められ(注)、水圧による浮上を防ぐために、伏越の上には、
重土橋(おもりどばし)と呼ばれる土橋(木製の橋で通路は土を盛って舗装)が架けられた。
柴山伏越と河岸:
掛樋が廃止されたので、見沼通船は柴山伏越の地点では一旦、荷物を降ろして別の舟に
積み替えることが必要となった。柴山伏越の下流400m付近(白岡町柴山〜蓮田市上平野)には
平野河岸と呼ばれる、荷降しのための船着場が設けられていた。
また、柴山伏越の上流にも、通船に関する荷の集配に従事した人々がいたようで、白岡町柴山の
橋戸地区(柴山伏越から上流へ300m、野通川の合流付近)には、往時を偲ばせる石造りの蔵が
残っている。これらの河岸場は見沼通船堀が衰退する明治時代末期まで存在した。
元荒川の河岸場としては最上流に位置していた。
柴山伏越の規模と工法:
当時の元荒川の川幅は現在に比べ、3倍もあったと伝えられているが、実際の川幅は
柴山伏越の長さが26間(約47m)と記録されているので、現在よりも若干狭かったと推定される。
元荒川は1629年に伊奈忠治によっておこなわれた荒川の瀬替えまでは、荒川の本流だったので
誇張されて伝えられたのであろう。また、伏越という構造形式は見沼代用水で初めて考案された
わけではなく、江戸時代初頭から存在する枯れた技術である。見沼代用水よりも約70年前の
万治3年(1660)に開削された葛西用水では、既に幹線水路の5箇所に伏越が設けられている。
さらに柴山伏越は当時最大級の伏越というわけではなく、小針落伏越(行田市〜川里町、
野通川の起点)や三十六間伏越(菖蒲町〜白岡町、隼人堀川の起点)の方が
伏越長は長かったと思われる。両伏越の建設工事も井沢弥惣兵衛が指揮している。
なお、見沼代用水沿革史(見沼代用水土地改良区/編、1957)などによれば、柴山伏越の
施工では、元荒川をせき止めない画期的な工法が採用されたようである。
伏越本体を元荒川の流路ではない(水が流れていない)場所に建設してから、元荒川を
瀬替えして(川の流れを伏越の方へ導く)、元荒川の下を見沼代用水を横断させている。
元荒川には仮締切り(流水を遮断する構造物)は設けられていない。
いずれにせよ、柴山伏越の工事は当時としては、技術的に非常に難しいものだったので、
江戸から専門の職人(舟大工が多かった)を呼び寄せて、工事に当らせたという。
柴山伏越の変遷:
木製の伏越は漏水や老朽化が激しいので、建設後には何度も修復や改築が行なわれている。
全面的な伏せ換えは10年に1度程度だが、部分的な修理や改築は5年に1度と頻繁だった。
伏越本体の修理や改築では、元荒川をせき止めて水の流れを迂回させ、伏越付近の水を
除去してから、伏越を掘り返さなければならないので、工事は大掛りとなり、費用も莫大だった。
工事は幕府の普請役が監督し、建材(木材、石材、金物など)は江戸から見沼通船で運ばれた。
柴山伏越は明治20年(1887)4月には、当時の最先端の建材だった煉瓦を使って、大改修された。
木製の2連という、230年間も続いた構造形式は廃止され、煉瓦造りの1連となった。
これに伴い、通水断面の形状は四角形から円形となった。 → 柴山伏越の竣工記念碑
柴山伏越はレンガ造りの河川構造物としては、埼玉県初のものである(起工は備前渠圦樋に
次いで2番目だが、竣工は埼玉県で最初)。明治期以降、埼玉県には全国でも類の無い、
実に250基以上ものレンガ造りの河川構造物が建設されたのだが、
柴山伏越はその口火を切ったことになる。 →埼玉県の煉瓦水門
柴山伏越の設計には、ムルデル(明治政府の招聘したオランダ人技術者。見沼代用水の
技術顧問をしていたこともあるようだ)が関与したと、筆者は推測している。
煉瓦造の伏越は耐久性が高かったが、昭和初期に実施された元荒川の河川改修によって、
元荒川の河床が低下したことで、伏越本体が完全に露出してしまった。
そのため、昭和4年(1929)には埼玉県が新たにコンクリート製の伏越を建設した。
煉瓦造の伏越は非常に堅牢で、筆者の知る限り、40年間に修復や改築は一度もなされていない。
現在の柴山伏越は、レンガ造りから3代目であり、鉄筋コンクリートで全面的に改築されている。
なお、2代目の遺構(昭和4年竣工)が柴山伏越から300m下流に移築されている。
↑柴山調節堰(上流の宮野橋から撮影) 柴山伏越の入り口の約20m上流にある。 鋼製ローラーゲート:幅3.55×高さ2.40m、2門 幹線水路の水位を調整するための施設。 左端は余水吐。洪水などで見沼代用水の水量が 多すぎる時には、柴山伏越に通水しないで元荒川へ 放流するためのもの。3代目の伏越で初めて導入された。 |
←柴山伏越の全景(空撮) 現地の案内板から作成。 元荒川の堤防間の幅は、現在は約70m(歩測) 柴山伏越の脇には常福寺橋が架かる。 常福寺橋の左岸橋詰(白岡町の側、写真の左下)には、 見沼代用水の開削者、井沢弥惣兵衛の墓がある。 元荒川は、青い←の方向に流れている。 見沼代用水は柴山伏越で、元荒川の下に潜って、 赤い→の方向へ流れる。柴山伏越のような方式は 逆サイフォンと呼ばれ、代用水の縦断形(赤い→を元荒川の 水面から見る)は∪の形をしている。見沼代用水は元荒川の 川底に埋められたパイプ(∪の形)の中を流れている。 ↑伏越の出口(上流から撮影) 出口側にも緊急時用のローラーゲートが 1門装備されている。 |
(注)2連の伏越と重土橋という形式は、明治時代になっても継承された。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡柴山村(12巻、p.254)によれば、
それぞれが大樋、小樋と呼ばれ、長さは二十六間(約47m)と同じだが、
通水断面は大樋が幅一丈四尺(約4.2m)高さ四尺(約1.2m)、
小樋が幅一丈二尺(約3.6m)高さ四尺(約1.2m)だった。