川口堤と決壊跡の碑

 撮影地:埼玉県加須市

 川口堤とは古利根川の右岸側に設けられていた旧堤防であり、古利根川が
 葛西用水路として再開発される(1660年)以前から存在していたようである。
 現在の加須市南大桑から川口に至る全長約4Kmの大堤防であった。
 川口堤は古利根川(堤が築かれた頃は利根川)の洪水から騎西領を守るために
 築かれたようであるが、配置は騎西領と羽生領の境界に沿ってではなく、
 羽生領の中に(大桑村から川口村にかけて)悠然と設けられている。

 新編武蔵風土記稿の埼玉郡之十六 川口村には、”堤:村の西にあり、利根川水除にて、
 古くより築ける堤なり。本囲堤と云、今も新堤のひかへ堤にして、騎西領村々の水除なり”
とある。
 大桑村の項にも同様の記述があり、高さは一丈二尺(約3.6m)と記されている。
 川口堤は旧堤であり、新堤と共に二線堤の形態をとっていたようだ。
 また、武蔵国郡村誌の埼玉郡南大桑村(12巻、p.420)には、”川口堤:村の北方にあり
 西方南篠崎村界より東方川口村界に至る
 長九百五十七間二分 根置十二間 馬踏四間
 用水圦樋二ヶ所
 修繕費用は民に属す”とある。堤防の長さは南大桑村の区間だけでも約1.7Km、
 敷幅が約22m、堤防天端幅は約7.3mもあり、かなりの規模の堤防だったことがわかる。
 旧堤かつ控堤なので堤防の維持・修繕の費用は地元民の負担だった。
 なお、鷲宮町史 通史 中巻、p.334によれば、川口囲堤の維持管理のために、
 19ヶ村外助合村22ヶ村によって、寛政五年(1793)に組合が結成されたとある。

 川口堤
(1)川口堤 (瘤神社の付近)  加須市大桑一丁目〜南大桑
 加須流通業務団地の東端から約100mに渡って残っている。
 写真は南西側から撮影したもので、北東200mには
 葛西用水路が位置する。堤防上には樹木が生い茂り、
 瘤大神が祀られている。
   川口堤
  (2)川口堤 (雷電社の付近) 加須市南大桑
   (1)から南東へ600mの地点。写真の左端が雷電社。
   川口堤は雷電社の下から手前まで繋がっていたと思われるが、
   現在は市道によって分断されている。
   手前の堤防跡の比高は約2mある。

 決壊跡 水害復旧記念碑
 決壊跡 水害復旧記念碑
 加須市南大桑、東岡集会所内
 写真(2)から東へ300mの地点。
 昭和22年のカスリーン台風に
 よって中川の堤防が6箇所も
 破堤したことで、川口堤も
(碑文には観音堂堤塘とある)
 南大桑で決壊している。 

  決壊跡を偲ばせる沼地
  決壊跡を偲ばせる沼地 加須市南大桑
  水害復旧記念碑の南側には、このような沼地がある。
  周囲長は約100m程あるが、これは決壊地点に
  出来た
切れ所沼であろうか。写真左上の市道は周囲より
  高い所に設けられている。この道路は川口堤の跡地であろう。
  この付近には構え堀(屋敷の周囲または一部に堀を
  めぐらせたもの)を持つ家もある。これは旧家に多い。
  水害防備のために屋敷は少しでも高い所に建てたい。
  その盛土のために土を掘った土取り場の跡が構え堀なのだという。

 水害復旧竣功記念碑
 水害復旧竣功記念碑
 加須市川口、神明社

 南大桑の水害復旧記念碑から
 南東へ900mの地点にある。
 ここは葛西用水路の
 右岸からは約400m南に
 位置する。この碑も昭和22年の
 水害復旧記念である。
 昭和25年建立。高さ約2.5m。
 碑文には川口地区では
 上川面で一箇所、
 下川面で二箇所が決壊とある。

  
昭和二十二年大洪水紀念碑
 昭和二十二年大洪水紀念碑
 加須市南篠崎、神明社

 南大桑の水害復旧記念碑から
 西へ2Kmの地点にある。
 開扉記念と題されている。
 この碑も昭和22年の
 水害復旧記念である。
 昭和25年建立。高さ約2.5m。
 碑文には一画を除き、
 南篠崎全村が湖水と化すとある。
 神明社の境内には
 明治四十三年大洪水紀念碑も
 設けられている。

 明治四十三年大洪水紀念碑
 明治四十三年大洪水紀念碑
 加須市南篠崎、神明社

  
  明治四十三年大洪水紀念碑
  加須市花崎二丁目、鷲宮神社

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