和田吉野川 〜 大芦橋の付近 [和田吉野川のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡大里町小八林(こやつばやし)
←和田吉野川(下流から、吉見橋から撮影) この河道は昭和初期の河川改修で掘削されたもの。 写真上部の橋は大芦橋。大芦橋の周辺には荒川の 旧河道跡(江戸時代以前は和田吉野川)が残っている。 大芦橋の右岸アプローチ部(写真左端から約1Kmの区間)は、 比企郡吉見町の飛び地で、横手堤(注)と呼ばれる控堤である。 横手堤は荒川の右岸堤防から堤内地側へ向かって直角に 設けられている。この堤防は荒川と和田吉野川が氾濫や 決壊した時に、上流側(大里町)からの洪水の流入を 防ぐために、下流側(吉見町)が寛永年間(1620年頃)に 築いたもの。同時期には荒川の瀬替え(和田吉野川、 市野川、入間川へと荒川の流路を変更)が行なわれている。 そのため、この地域一帯は以前よりも洪水流量が増加したので、 控堤(横手堤)の建設が必要になったのであろう。 この地点から2Km上流の和田吉野川右岸(東松山市岡〜 大里町相上)にも、相上堤と呼ばれる控堤が残っている。 |
←鏡ケ淵(中の淵) 横手堤の下流には、鏡ケ淵という周囲200mほどの池がある。 現在は吉見堰用水(荒川の六堰頭首工から取水する大里用水の 一部)から水量補給を受けていて、農業用水のため池として機能している。 鏡ケ淵に貯えられた水は、北側に設けられた分量樋(起源は1703年、 現施設は1913年に建造)で分水され、横見第一用水路(下流では文覚川)と 横見第二用水路(下流では横見川)を経由して、吉見町の 水田へと送水されている。 鏡ケ淵は荒川の洪水によって形成された落ち掘(押堀、切れ所沼)。 明治17年(1884)の迅速測図に記載されているので、近代以前の 洪水で形成されたと推定できる。同様の落ち掘は、久下橋付近の 荒川左岸(大里町小泉)、利根川との合流付近の福川右岸 (行田市北河原)にも見られる。両沼の名前は、そのものズバリ、 切所沼である。なお、市野川の左岸にある鳥羽井沼(川島町)、 中川の右岸の宝泉寺池(鷲宮町)、高須賀池(幸手市)も切れ所である。 |
←和田吉野川(荒川の右岸堤防から) 和田吉野川は、この地点から1.5Km下流で荒川の右岸へ 合流する。和田吉野川の左岸堤防は導流堤(瀬割堤)の 役割を果たしている。導流堤とは支川の合流地点を 下流へ引き下げる時に設けられる堤防で、本川から支川へ 洪水流が逆流するのを抑止する効果もある。 写真手前の橋は吉見橋。吉見橋を渡った先の荒川の堤外地 (写真左端)には、昭和初期まで大芦河岸(かし)があった。 河岸とは船着場のことで、舟運に従事する人々が集落を 形成し、河川敷内に住んでいた!。筏流しが盛んだった頃には ドバ(土場、筏の係留、組み換え地)もあった。堤外地には、 大芦河岸周辺の集落を守るために、永保堤と呼ばれる 畑囲堤防(横堤の一種)も築かれていた。 現在は河岸場や永保堤の面影はほとんどないが、 屋敷林の一部と思われる竹薮が残っている。 |
↑吉見橋(右岸から) 1978年3月竣工 昭和初期に開削された和田吉野川の新流路に架かる橋。 鋼桁橋(10スパン)、全長85m(歩測)、幅4m。 車輌の重量制限3t。見た目の古風さ(特に橋脚)に反して、 意外に竣工年は新しい。架橋地点は大里町だが橋名には 吉見が冠されている。これは大里町の前身の一つである、 大里郡吉見村(1955年に消滅)に由来する。大正時代に 設置された吉見村の道路元標が今も残っている。 ちなみに比企郡吉見町の前身は横見郡であり、現在の 町域には東西南北を冠した吉見村が存在した。 なお、吉見橋を渡っても対岸の吹上町へは行けない。 荒川で行き止まりとなる。あくまでも荒川の堤外地に 残っている農地(民有地)へ行くための橋である。 吉見橋の路線はかつての日光脇往還(八王子千人同心道) |
↑大芦河岸跡にある三体の石仏 荒川の河川敷には屋敷林の跡が残っている。植生は水流に 対して強いとされる篠竹が多く分布する。屋敷林の目的は 防風林というよりも水害予備林であろう。写真の石仏群は 屋敷林跡の北側に祀られている。河岸場だったことに関連してか、 水の神様が多い。左から九頭龍大権現(明治44年)、 馬頭観音(明治6年)、水神宮(文化12年)。 水神宮は高さ1.5mとかなり大きく、表には、 八十三翁愚禅書と記されている。書の達人、大僧正 愚禅(吉見町丸貫の出身)は埼玉県内の数多くの石碑に その筆跡を残している。この付近では熊谷市久下の一里塚跡の 馬頭観音が愚禅の書である。久下権八地蔵にある、 寺社仏閣供養塔には、九十六翁の銘があるが、 これも愚禅の筆によるものだろう。 |
(注)横手堤は武蔵国郡村誌の横見郡中曽根村(6巻、p.521)に
以下のように記されている。郡村誌は明治9年の調査を基に編纂された。
用水に沿ひ村の乾の方 大囲堤より起り西方箕輪村界に至る 長九町四十六間
馬踏二間敷十二間 水門一ケ所長十四間横九尺高四尺 修繕費用は官に属す
大囲堤とは荒川の右岸堤防のことだが、この付近の荒川堤防の規模は
馬踏九尺(堤防天端幅が2.7m)、堤敷十四間(敷幅が25.5m)と記されているので、
荒川の本堤と比べても横手堤の規模(馬踏二間、敷十二間)は遜色がない。
なお、記述にある水門とは横手堤に伏せ込まれていた樋管、横手圦のこと。
横手圦は横見郡の利水施設であるが、洪水時には横手堤によって
せき止められた悪水の余水吐としても機能していた。
上流側(大里郡)からの悪水は、横手堤によって完全に遮断されないで、
一部は下流側(横見郡)に流入していたのである。これは大里郡と
横見郡の村々の間で協議書が、交わされた上での措置であろう。
横手堤は下流の横見郡にとっては、荒川や和田吉野川の洪水から
村々を守るための治水上の重要な砦だったが、上流の大里郡にとっては
常時には悪水の流下が阻害され、湛水被害を招くだけでなく、荒川や
和田吉野川で洪水が発生した時には、その洪水流が横手堤で
堰き止められて、被害を増大させるだけの無用な存在だった。
したがって、横手堤に関する利害は対立し、横手堤の補修や
維持の処遇を巡って、頻繁に水争いや訴訟が繰り返されていた。
大里郡は横見郡に対して、横手堤の撤去を再三に渡り要求していた。