会の川のレトロな橋 (その2)  ( (2)    ) [会の川の橋一覧

 撮影地:会の川、埼玉県羽生市(はにゅう)

 鷹橋

 鷹橋 (たか:下流から撮影)
 場所:羽生市下新田〜下新郷  建設:昭和10年(1935)前後
 形式:鉄筋コンクリート桁橋(1スパン) 
    長さ 7.9m、幅 3.5m、欄干高 0.75m、親柱高0.95m
 鷹橋の詳細

 国道125号行田バイパスの北側400mに、鷹橋は位置する。
 鷹橋から東へ500m進むと、
藍染(あいぞめ)ふる里資料館がある。
 田山花袋の小説「田舎教師」は、”四里の道は長かった。
 その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。”で始まる。
 青縞とは藍で染めた木綿の布のこと。
 羽生市は田舎教師と藍染(武州紺屋)の町である。

 鷹橋はゴシック調の重厚なデザインの橋である。
 表面はコンクリートの打ち放しで、仕上げは施されていない。
 欄干の開口部は、会の川の橋では唯一の
尖塔アーチ状
 鷹の羽をイメージしたのであろうか?この付近で徳川家康が
 鷹狩りをしたという言い伝えも残る。親柱には細かな装飾と
 
川の字のモチ−フが見える。銘板は現存しない(盗難にあったという)。
         あずま橋 (下流から撮影)
         場所:羽生市砂山〜下新郷
         建設:昭和10年(1935)前後
         形式:鉄筋コンクリート桁橋(1スパン)
 長さ 8.0m(歩測)、幅 1.8m、欄干高 0.3m、親柱高0.35m

     あずま橋は、国道125号の行田バイパスの
     南200mに位置する。
     周囲には水田(陸田)と畑が広がり、景観は良好。
     橋の名は、この周辺の旧字名である、東耕地に
     由来すると思われる。橋のデザインは1Km上流に
     ある橋(名称不明)とまったく同じ。
     欄干の開口部はアーチ状になっている。
     この橋も車は通行できないが、
     地域の生活道路として重要な役目を果たしている。
あずま橋

 
花見橋
 旧・花見橋 (はなみ:下流から撮影)
 場所:羽生市砂山〜下新郷  建設:昭和10年(1935)前後
 形式:鉄筋コンクリート桁橋(1スパン)
    長さ 7.8m、幅 5.6m、欄干高 0.6〜0.95m、親柱高 2.0m


 羽生道(旧道)に残るのが旧・花見橋。上流には県道32号鴻巣
 羽生線の新しい花見橋(昭和28年3月竣工)が架かる。
 花見橋の歴史は古く、嘉永年間(1850年頃)に石橋として
 再建された石碑も残っている(注)。橋名の由来には2説あり、
 (1)近くにある大光院(お寺)の山号(花見山)から
 (2)この付近が花見(桜ではなく蓮)の名所であったことから
 だという。→参考文献:砂山・その周辺覚え書、関口啓助、1996
 江戸時代の書である武蔵風土記稿には、この付近に花見原と
 呼ばれた牡丹畠があったと記されている。

 この橋の最大の特徴は、奇抜なデザインの巨大な親柱。
 親柱の頂部に置かれた球体は、ゼセッション等の西洋様式の
 影響ではなく、日本古来の石塔をデザインしたものだろう。
 欄干は側面から見ると緩やかなアーチ状となっていて、橋の中央部が高い。
 開口部は、パイプが挿入され補強を兼ねた形式。
 旧・花見橋の詳細

(注)花見橋は武蔵国郡村誌の砂山村(13巻、p.25)に
 ”羽生道に属し 会の川の上流に架す 長九尺巾一間 石造”と記されている。
 郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されているので、
 記述された花見橋は嘉永年間に再建されたものと同一であろう。
 長さ2.7m、幅1.8mの小さな石橋である。この規模だと橋の形式は
 1スパンの桁橋だったと思われる。会の川には川幅が急に
 狭くなる区間が所々にあったらしいので、花見橋の架橋地点も
 そのような所が選定されたのだろう。

 なお、木造だった花見橋を石橋として再建したさいに、
 二十三夜講中によって建てられた
石橋供養塔(1849年)
 砂山の愛宕神社に残っている。
 この供養塔は、橋再建のために近隣村々の助力があったこと、
 遠方の下須戸村(行田市下須戸)や稲子村(羽生市稲子)からの
 助成者の氏名、寄付金額などが記されていて、
 情報量が非常に多く、歴史的史料の価値が高い。


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