高麗川 - 若宮橋の周辺  [高麗川のページ一覧

 撮影地:埼玉県坂戸市菅方、厚川、北大塚、浅羽 高麗川
 (注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。

 万年橋
↑万年橋(上流から) 坂戸市菅方
 若宮橋から700m上流。万年橋は毛呂山町(左岸)と
 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁橋。
 県道114号線(かつての川越道)に架かる。明治初期には
 既に存在し、長さが18間(32m)の木橋だった。万年橋とは
 永久橋(冠水しない橋)と同じ意味の普通名詞。上流側の
 桁の側面にはランガー形式の水管橋が併設されている。
 河道には旧橋の橋脚と思われる木杭が残っている。 
 万年橋の下流左岸へは葛川放水路(注)が合流している。
   万年橋から眺めた高麗川
  ↑万年橋から眺めた高麗川(上流から)
   高麗川の河道がS字に蛇行しているのがわかる。
   蛇行の周辺には砂州が形成されていて、流れには瀬と
   淵が適度に分布するようだ。河川敷には河畔林が群生している。
   この付近には興味深い構造物や石仏が数多く残っている。
   ここから200m上流には、明治31年建設の煉瓦水門(
吉根樋管)、
   400m北の欠ノ上と500m南の森戸との境界には、それぞれ
   
石橋供養塔がある。万年橋の右岸から300m南東に
   鎮座する大塚神社は、旧名が白髭社だったようである。

 万年橋から眺めた高麗川の右岸堤防
↑高麗川の右岸堤防(万年橋の上からの眺望)
 高麗川だけでなく堤防も蛇行している。
 天端幅は3m位あるのだが、堤高は約2mと意外に低い。
 写真右上に見えるのが坂戸市の市街地だが、
 この付近では高麗川の周囲には水田が広がっている。
 高麗川は眺めて良し、散策にも良しの魅力ある川だ。

   
若宮橋
  ↑若宮橋(上流から) 坂戸市厚川
   若宮橋(冠水橋)の北400mには若宮中学校がある。
   たぶん、若宮橋は通学路として使われているのだろう。
   写真右上に見えるのは北大塚樋管。自然流入方式で農業用水を
   取水しているようだ。下流側に堰らしき構造物は見当たらない。
   右岸の鶴舞団地は戦国時代の浅羽城(菅方城)の跡地に建つ。

  
九頭龍神社
 ↑九頭龍神社(水神)
  北大塚樋管の北側、高麗川の
  堤防裾に祀られている。
  明治九年 入間郡大塚村の銘。
  九頭龍とは水を鎮める神様。
  荒川水系では
水神宮と共に多い
  水は豊かな恵だけでなく、
  時には水害となり、災いも
  もたらした。畏敬の念の表れ。

    
中里堰
   ↑中里堰(右岸から) 坂戸市浅羽
    若宮橋から1.3Km下流。北大塚と中里の境界、
    高麗川橋(関越自動車道)の西側にある取水堰(固定堰)。
    左岸から農業用水を取水する。改築中なのだろうか、
    堰の全面にはH形鋼が打ち込まれたままである。
    なお、武蔵国郡村誌の入間郡浅羽村(4巻、p.508)には、
    高麗川に上芝橋という長さ15間(約27.3m)の橋が存在して
    いたという記録(明治9年時点)があるが、現在はそれに
    相当する橋はない。若宮橋から高麗川橋までの区間には
    橋は架かっていない。上芝橋は関越自動車道の路線に
    架かっていたのだろうか。

(注)葛川放水路とは葛川(高麗川の支流、一級河川)の派川(人工水路)。
 葛川の洪水流を高麗川へ分流することによって、ピーク洪水量を減少させている。
 その路線は旧高麗川と一致するようだ。旧高麗川とは高麗川の旧流路のことで、
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の入間郡欠の上村(5巻、p.37)に
 以下のように記されている。
 ”深処六尺浅処三尺五寸
 巾二十間緩流澄清 村の西方 大久保村より来り
  両派となり一は菅方村に入る 一は成願寺村に入る 長二町二十二間”
 [菅方村に入る]流れが、現在の葛川放水路だと思われる。
 [成願寺村に入る]流れは現存しないが、熊野神社の東から若宮中学校の
 西にかけて、約600mに渡って段丘崖のような地形が残っているので、
 その崖下を旧高麗川が流れていたと推測される。
 実際、欠の上という地名は崖の上を意味する。
 なお、大久保村とは現在の毛呂山町西大久保、名前のとおり、
 相対的に窪地となっている。旧高麗川の川幅は二十間(約36m)と広い。


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