秩父鉄道の略史

武州荒木駅の付近 会の川橋梁(羽生市) 武蔵水路と秩父鉄道(行田市)

秩父鉄道は埼玉県の北部を東西に横断する私鉄で、羽生市の羽生駅から秩父郡荒川村の
三峰口駅までの71.7Kmが営業区間である(駅の数は32)。現在、日本で営業中の私鉄としては、
社歴はかなり古い部類に属し、全国でも五指に入る。秩父鉄道の前身は上武鉄道と北武鉄道。
上武鉄道は、大宮郷(現.埼玉県秩父市)の織物商・柿原萬蔵の提唱により、
上州館林と武州秩父を結ぶ鉄道として計画された。同氏は埼玉県で最初(明治20年)に
羽二重の製造工場を設立した起業家である。当初、計画された上州と武州を結ぶ路線は
利根川や渡良瀬川を鉄橋で横断する必要があり、建設費が多額となることや
洪水によって鉄道の運行が停止する危険性が大きいことなどが懸念され、結局、
計画路線は縮小された。そして先ず最初に熊谷〜秩父間を開通させることが当面の目標となった。
なお、熊谷〜秩父間の路線計画では小川支線と呼ばれ、大里郡武川村(現在の武川駅付近)から
比企郡小川町へと通じる路線の計画があったが、これは途中で立ち消えとなった。

計画路線のうち、熊谷〜寄居間の12マイル(約19Km)は、明治33年(1900)4月に工事を着工し、
明治34年10月に開通している。土工は東京神田の有馬組、四駅の建設は大里郡奈良村
(現.熊谷市奈良)の飯塚吉五郎が請け負った。客車は東京車輌製作所、軌条(レール)と
橋桁(鉄道橋用6径間)は高田商会から購入している。この時に購入した橋桁は、ポーナル型の
プレートガーダーであり、現在も奈良堰用水橋梁、玉井堰用水橋梁、大麻生堰用水橋梁に使われている。
なお、大麻生駅から西の一部の区間は、鉄道大隊(明治29年に陸軍士官学校に
おいて発足。のちの鉄道連隊)の演習を兼ねて建設されたという。

波久礼(寄居町)までは順調に工事が進んだが、その後は経営難から資金調達もままならず、
結局、波久礼駅は8年間もの間、終点駅のままだった。明治
44年(1911)には波久礼〜金崎間が
開通したが、荒川を横断することは無く、金崎(当時は秩父郡国神村、現在の皆野町金崎)が
終点だった。紛らわしいことに、金崎駅はのちに秩父駅と改称された。
念願の大宮町(現.秩父市)に到達するのは、工事着工から実に14年後の大正3年(1914)である。
秩父鉄道は経営困難に陥った時期に、埼玉県出身の実業家・渋沢栄一に援助、相談を
求めていたこともあり(埼玉県史
 資料編21、p.395)、同氏が明治20年に地元の深谷市に
創設した企業、
日本煉瓦製造との関連も深い。日本煉瓦製造の諸井恒平(後に秩父セメントを
創設)が、明治
43年から秩父鉄道の取締役を務めたこともある。
後に秩父鉄道はセメント運搬によって業績を延ばすことになる。

北武鉄道の創設者は、北埼玉郡袋村(現.北足立郡吹上町袋)出身の指田義雄である。
同氏は大正
年から東京米穀取引所理事長、東京商業会議所会頭などを歴任し、
渋沢栄一との親交も深かった。
出生地の村社である袋神社(旧称:女体神社)の境内には、
大正5年建立の袋神社碑があるが、その題字は渋沢栄一、撰文が指田義雄である。
なお、北武鉄道の開通当時は指田は衆議院議員であった。

年度 出来事 備考
明治34年(1901) 熊谷〜寄居間が開通  
明治36年(1903) 寄居〜波久礼間が開通  
明治44年(1911) 波久礼〜金崎間が開通 ただし、宝登山駅(現在の長瀞駅)から
秩父駅(皆野町金崎)までの区間はのちに廃線。
大正 3年(1914) 藤谷淵(現.長瀞)〜大宮(現.秩父)間が開業 荒川を越える
大正 5年(1916) 秩父鉄道株式会社と改称  
大正 6年(1917) 秩父〜影森間が開通  
大正10年(1921) 北武鉄道:羽生〜行田間開業  
大正11年(1922) 北武鉄道:行田〜熊谷間開業
北武鉄道(熊谷〜羽生)を吸収合併
蒸気機関車から電気機関車への転換
関東以東の私鉄では電化の第一号、
日本国内でも3番目の早さ
昭和 5年(1930) 影森〜三峰口間が開通  

参考文献: 秩父鉄道五十年史、秩父鉄道株式会社、1950
       
秩父鉄道(株)のHP(http://www.chichibu-railway.co.jp/)
       吹上町史、吹上町史編さん会編、1980


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