日本煉瓦製造 改訂4版:2007/07/02
設立の経緯:
明治19年(1886)、明治政府は東京都日比谷への官庁集中計画のために、臨時建築局(総裁は
井上馨、銀座煉瓦街計画を実行した人物)を設置し、その顧問として、ドイツ人建築家の
ベックマンとエンデを招聘した。彼らは官庁舎の建設には良質な煉瓦が大量に必要であること、
そのためには機械を使った煉瓦製造工場の建設が必要であることを政府に進言した。
これによって、明治20年(1887)10月に日本煉瓦製造会社の工場が、武蔵国
榛沢郡(はんざわ)上敷免村(じょうしきめん)に設立された(現在の埼玉県深谷市上敷免)。(注0)
当初は官営工場とする案も出ていたようだが、煉瓦は臨時建築局が優先して買い上げること、
工場には外国人技師を派遣することを条件として(注1)、民間会社としてスタートした。
なお工場の計画段階では、煉瓦の材料となる土は工場周辺の畑地から採掘する予定だったが、
これは工場の誘致を歓迎していた近隣の14村が無償で供与することになった。(注2)
創設時の中心人物は、榛沢郡血洗島村(ちあらいじま、上敷免村の西3Kmに位置する)出身の
実業家、渋沢栄一である。他に池田栄亮(初代理事長、利根運河会社の創設役員でもあった)、
増田孝(三井物産会社)、諸井恒平(深谷市の隣の本庄市出身、後に秩父セメントを創設)らが
名を連ねている。集まった出資金は20万円だった(当時の小学校教員の初任給は月5円)。
機械方式による日本初の煉瓦工場:
日本煉瓦製造会社(のちに社名を日本煉瓦製造と改めた)は、日本で最初の機械方式による
煉瓦工場であり、創設当初から、煉瓦の製造工程のうちの素地(粘土+砂)の混成・成形、乾燥、
焼成が機械化されていたようである。このために例えば、ドイツ製の煉瓦型抜き機械(動力式)、
コール式室内乾燥室、ホフマン式輪窯3基などが導入されている。→文献14
当時の煉瓦製造で一般的だった、手作業による煉瓦成形が機械抜き成形に、屋外での天日乾燥が
室内乾燥に、薪燃料を使って登り窯での焼成が、石炭を使って輪窯での焼成へと革新されたのである。
ホフマン輪窯の1号窯が完成し、火入れをおこなったのは、明治21年(1888)9月であり、
煉瓦の製造を行ないながら工場の建設を進めた(ホフマン輪窯2〜3号は1号窯で焼いた煉瓦で建設)。
なお、工場の建設当初、機械の動力源は蒸気式の原動機(燃料は石炭)だったが、
後に電動機を導入し、機械設備の全面的な電力化をはかった。明治39年(1906)8月には、
高崎水力電気株式会社と契約をして、工場内に電灯線を架設している。
工場の付属施設が完成し、日本煉瓦製造が本格的に操業を開始したのは、明治22年5月であった。
ちなみに、工場の設計者は辰野金吾(東京駅、日本銀行等を設計)、施工は清水店(現.清水建設)。(注3)
辰野は当時、帝国大学工科大学(現.東京大学工学部)の教授だったが、建築事務所も設立していた。
事務所の開業は明治19年なので、日本煉瓦製造の工場設計は辰野事務所の開設とほぼ同時期に
行なわれていることになる。日本煉瓦製造は辰野事務所としての極めて初期の作品といえる。
なお、辰野金吾は後に辰野式と呼ばれる、赤煉瓦と花崗岩を基調にした独自の建築様式を
確立するが、奇しくも彼の最高傑作である中央停車場(JR東京駅)の建設には、自分自身が
設計した工場によって製造された煉瓦が使われることになる。
専用線の敷設〜近代的な輸送方式の確立:
当初、日本煉瓦製造会社は製品の東京への輸送手段として、利根川の舟運を使っていた。
小山川から利根川に入り、そのまま40Km下り、千葉県の関宿町付近から江戸川に入るというルートであった。
しかし、増産体制が確立してくると、舟運では輸送力の不足と遅さが顕著になってきた。(注4)
明治26年(1893)5月には、操業以来初めての生産縮小に陥ったが、この原因は輸送能力の不足から
煉瓦の大量在庫が発生して、煉瓦の保管場所がなくなってしまったからだった(→文献20、p.60)。
煉瓦を迅速かつ大量に輸送する新たな方法を確立することが急務であった。
その対応策として明治28年(1895)には、工場から日本鉄道(現.JR高崎線)の深谷駅までの
約4Kmの区間に上敷免鉄道(日本初の民間専用線、1975年廃線)を敷設した。
この専用線の発案者も渋沢栄一である。(注5)
工場と深谷駅が直結されたことにより、需要に応じた生産と運営体系が確立され、
製造された煉瓦は日本鉄道を経由して日本各地へ搬送された。
なお、日本煉瓦製造の専用線跡(約4Km)は、今では「あかね通り」と名づけられた遊歩道になっていて、
備前渠鉄橋(びぜんきょ、国の重要文化財)、福川鉄橋、唐沢川鉄橋が保存されている。
これらは明治28年前後に建造された、ポーナル型プレートガーダー橋(桁は鋼製、橋台は煉瓦造り)であり、
鉄道史において価値が高いだけでなく、日本の近代産業の黎明期を象徴する貴重な産業遺産でもある。
ポーナルとは人名(Charles.A.W.Pownall)で、明治政府に招かれたイギリス人の鉄道技師のこと。
日本の近代化に寄与した日本煉瓦製造:
日本煉瓦製造会社は、その高品質の煉瓦と突出した煉瓦製造能力から、関八州の覇王とも称され、
ブランド名である上敷免製の赤煉瓦は、日本各地の煉瓦構造物に使われた。
JR東京駅、日本銀行旧館(表面は石張り)、法務省旧本館、赤坂離宮(現.迎賓館:表面は石張り)、
碓氷峠の鉄道施設(めがね橋やトンネル)、東京市街高架鉄道(例えば万世橋高架橋)、等に
使われている赤煉瓦は、日本煉瓦製造が作ったものだ。(注6)
地元の埼玉県では明治期から大正期にかけて、全国でも類のない実に250基以上もの煉瓦造の水門が
建設されたが、これも日本煉瓦製造会社の存在が大きな要因であった。
埼玉県では明治から大正期にかけて、約30戸の煉瓦工場が創設されているが(筆者の調査による。
ただし、これは公的な記録が残っているものだけなので、実際に存在した煉瓦工場の数はもっと多い)、
明治20年代を除くと、それらの煉瓦水門に使われた煉瓦は、ほぼ日本煉瓦製造の製品であった。
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←日本煉瓦製造の工場 深谷市上敷免89番地。 工場の北300mには小山川、2Kmに利根川、南側には 備前渠用水(注7)が流れる。上敷免という変った地名は、 雑食免(ぞうしきめん)に由来する。雑食とは律令時代、工芸、技術等の 雑役に従事した人のことで租税が免除された。(→文献10) 昔からテクノクラートが住みついていた土地なのね(^^;) 工場地内には、 木造洋館(明治21年頃建造。ドイツ人の煉瓦製造技師チ−ゼの住居兼事務所)、 旧変電室(明治39年建造。蒸気式原動機から電動機への移行)、 ホフマン輪窯(明治40年建造。ドイツ人ホフマン考案の煉瓦焼成窯)が 保存されている。どれも国の重要文化財である。 木造洋館は、日本煉瓦史料館として使われている。 (月曜休館、開館時間:10時〜16時) →日本煉瓦製造(株)のHPへ p.s.2006年6月29日、日本煉瓦製造は株主総会で自主廃業を決定した。 |
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←上敷免鉄道跡に残る赤れんがのアーチ橋(下流から) 日本煉瓦製造(株)の南東100m、備前渠鉄橋の脇にある。 備前渠用水から分水する新井用水の上に架けられている(→注7)。 備前渠鉄橋と同じく、明治28年前後に建設されたようだ。 長さ約2mの小さな橋だが、アーチリングは煉瓦小口で、 4重に巻きたてられている。面壁と翼壁の煉瓦はイギリス積み。 煉瓦造りの樋門と同じ構造形式であり、翼壁はもたれ式である。 不思議なことに日本煉瓦製造の地元である深谷市には、 煉瓦造りの樋門はわずかに2基しか建設されていない。 しかし、煉瓦造りの橋梁(鉄道関係を含む)は、建設されている。 明治31年には、唐沢川に行人橋(ぎょうにんばし、深谷市本住町)が架けられている。 また、アーチ橋ではないが、この地点から300m東にある、 備前渠用水の新井橋は、橋台が煉瓦で造られている。 橋台のコナー部分には石が貼られ重厚な外観である。 |
(注0)上敷免村は高畑村、矢島村、起会村などと合併し、明治22年(1889)に
榛沢郡大寄村(おおより)となった。榛沢郡は明治29年(1896)に大里郡に
編入された。そして大里郡大寄村は昭和30年(1955)に深谷市と合併した。
日本煉瓦製造の正門の北側、新河岸バス停(県道275号線)付近の歩道には、
大正時代に設置された大寄村の道路元標が今も残っている。
もっとも県道275号線の路線は、かつては日本煉瓦製造の敷地だったので
(道路を挟んで北に位置する深谷市浄化センターも同様)、
大寄村の道路元標は、近年にこの場所へ移築されたもの。
なお、渋沢栄一の生誕地である榛沢郡血洗島村(ちあらいじま)は、
明治22年に榛沢郡手計村(てばか)へ合併したが、明治23年には手計村は
八基村(やつもと)と名前を変えている。手計という既存の村名を踏襲したことで、
村々間では不平・不満が鬱積していたようで、その事態の紛糾を解決するためであった。
八基村という新村名の制定には、渋沢栄一が尽力したと伝えられている。
八基村の道路元標も現存している。ちなみに大正14年(1925)の時点で、
大寄村の人口は約4,000人だった。さらに古くは明治9年(1876)時点での
上敷免村の人口は、わずか405人である(武蔵国郡村誌による)。
従業員数333人(明治40年頃)の日本煉瓦製造は超大企業である。
(注1)日本煉瓦製造会社には、工場建設と煉瓦製造の指導のために、
臨時建築局からドイツ人の煉瓦技師:チ−ゼが派遣された。
工場の建設地として上敷免を選んだのは、渋沢栄一だとされているが、
それは誤りであり、チーゼが現地踏査と土質調査を基に決定した。
もっとも生まれ故郷に工場を誘致したいという、渋沢の意向が
誘致先の選定に大きく影響を及ぼしたことは否めないが。
また、工場開設の前年の明治19年には、ベックマンの提言によって、
日比谷への官庁集中計画の準備として、日本から建築技師3名
(河合浩蔵、渡辺譲、妻木頼黄)、職人17名がドイツ(ベルリン)へ留学している。
この一行に煉瓦職人として参加した大高庄右衛門は帰国後、日本煉瓦製造の
技師に採用されている。大高庄右衛門はのちに大阪窯業の社長に就任した。
なお、臨時建築局は上敷免工場が、本格的に操業を開始した翌年の明治23年(1890)3月に、
突然廃止された。しかし、このことは日本煉瓦製造の経営には、たいした打撃では
なかったようで、それ以降も官公庁からの大口発注が相次いでいる。
例えば、明治23年には東京裁判所から308万個、海軍省から340万個である(→文献20、p.59)
結局、官庁集中計画は実現しなかったのだが、海軍省の建設は数少ない成果だったといえる。
(注2)深谷市の周辺には、利根川と小山川の氾濫土が豊富に堆積しているために、
古来から瓦製造が盛んであった。その歴史は1200年も前から続くという。
一方、日本煉瓦製造が設立された付近の村々は、利根川と小山川の水害に
苦しめられることが多く、農地は水田よりも畑地の方が多かった。
例えば明治9年(1876)時点での上敷免村の税地は戸数85戸に対して、
田17ha、畑48haであった(武蔵国郡村誌による)。
日本煉瓦製造と各村の間には、原土採掘後の畑地を水田にする約束が交されていた。
農業用水路建設の費用も日本煉瓦製造が負担したそうである(→文献20、p.40)。
日本煉瓦製造は、かんがい排水事業までおこなっていたのだ。
現在、同工場の周辺には広大な水田地帯が展開している。
(注3)今でこそ巨大ゼネコンの清水建設だが、明治20年(1887)当時は、
社員数20名の土建屋だった。この社員数では、まともに公共工事はこなせないので、
下請けの労働力に依存していたのであろう。なお、同社は辰野金吾のあっせんで、
工部大学校や工科大学(のちの東京大学工学部)の卒業生を入社させて、
最新の設計・施工技術を導入したり、渋沢栄一と結びついて政財界との関係を深める、
等の企業努力によって、建設業界トップの地位を確保するに至ったようだ。
(→日本建築技術史、村松貞次郎、知人書館、1968、p.217〜225)
ちなみに辰野金吾は工部大学校造家学科の第一回卒業生(1879年)である。
辰野は日本煉瓦製造会社の工場が竣工した翌年の明治21年(1887)には、
東京兜町の渋沢栄一宅を設計している。その施工は清水組であった。
(注4)深谷市付近の利根川は扇状地河川であり、浅瀬なうえに洪水の度に頻繁に
澪筋を変えていた。江戸時代には国境をめぐって上州と武州との間での紛争も多発したようだ。
日本煉瓦製造が設立された当時の舟運は、動力船(外輪付きの川蒸気)が主流と
なりつつあったが、この付近の利根川は河道に中州が島のように発達していて、
浅瀬が多く、動力船の運行には不向きだった。
明治10年(1877)に就航を開始した内国通運会社(現在の日本通運)の動力船も
最初は両国(東京都)と大越(埼玉県加須市、利根川の河岸場)を結ぶものだった。
その後、さらに上流まで航路が開かれたが、それでも妻沼町が北限だった。
そのため、深谷市付近ではまだ帆や竿により船が航行していた。
重量と体積のある煉瓦の大量輸送には舟運は不向きだったと思われる。
東京へわずか数万個の煉瓦を輸送するのに、数10日も要したとの記録も残っている(→文献14)
なお、深谷市から利根川を下って、行田市で見沼代用水(星川)に入り、
見沼通船堀を利用することも可能だったが、実現はなかったようである。
(注5)上敷免鉄道の路線踏査、工事の設計、監督は日本鉄道の国沢能長が
担当した(埼玉県史 資料編21、p.289)。敷設工事は、本間英一郎が請け負った。
本間は本間鉄道工業事務所を経営する一方で、総武鉄道株式会社の
取締役でもあった(→文献20、p.76)。明治26年(1893)に建設された、
信越線(碓氷峠区間の鉄道施設)の工事責任者も彼である。
なお、めがね橋として知られる碓氷第三橋梁(日本最大の煉瓦アーチ橋)の
設計者は上述したポーナルである。めがね橋の設計補佐をした古川晴一は、
のちに余部橋梁(JR山陰本線、明治45年)を設計している。
(注6)東京駅の外壁の赤煉瓦は品川煉瓦や大阪窯業の製品。日本煉瓦製造の煉瓦は
構造用として、壁の中に使われているので、目にすることはできない。
ただしその数は800万個と膨大だ。東京駅の建設のために、日本煉瓦製造の煉瓦は
深谷駅から連日のように、しかも大量に送り出された。このことに因んで、
JR高崎線の深谷駅は東京駅にそっくりなデザインで、見た目も煉瓦造となっている。
なお、赤坂離宮は東宮御所として建てられたのを改築したものである。
東宮御所の建設に使われた煉瓦は、日本煉瓦製造の製品ということになっているが、
実は小菅集治監(刑務所)で製造した煉瓦だという。同様に法務省の煉瓦も
小菅集治監の製造らしい。(→異都発掘、荒俣宏、集英社文庫、1987、p.174)
皇室や法務省の建物に刑務所で焼かれた煉瓦が使われていることは、
さすがに公言が阻まれたようだ。
(注7)地元を流れる農業用水路、備前渠用水と日本煉瓦製造の関わりは深い。
工場誘致のさいに地元民との交渉、説得に奔走したのは、渋沢栄一から命を
受けた金井元治と韮塚直次郎らであった(→文献20、p.15)。
金井元治は、明治2年に発覚した岩鼻県による備前渠用水の
元圦位置変更計画に対して、荒木翠軒、尾高惇忠、地元の農民らと共に
反対運動を展開した筋金入りの人物である(→文献4、p.148)。
小山川の矢島堰付近に残る石碑、備前渠改閘碑記(備前渠用水の
近代史を記した石碑)には、寄付金者の筆頭に日本煉瓦製造株式会社、
発起人の中には、金井元治の名が刻まれている。
韮塚直次郎(幡羅郡明戸村の瓦職人)は、明治2年の反対運動を機に
尾高惇忠(渋沢栄一の従兄)の御用達となった。尾高惇忠は後に官吏となり、
明治5年には官営富岡製糸工場の初代工場長に命ぜられたが、
その配下で工場建設用の資材の調達を、おこなったのが韮塚直次郎である。
富岡製糸工場は木骨煉瓦構造だが、その煉瓦約20万個はフランス人バスチャンの
指導を得て、現地に窯を築いて、韮塚直次郎によって焼かれた。
韮塚という苗字は明戸村の周辺に多く、武蔵国郡村誌の発行人であり、
埼玉県の歴史研究に尽力した、韮塚一三郎も明戸村の出身である。
なお、尾高惇忠は富岡製糸工場を辞職後、利根川や小山川の治水問題に
傾倒し、明治23年(1890)には[治水新策]を発表している。
その内容は河川に巨大な堤防を築いて、洪水を力ずくで押し込めるのは
得策ではなく、高い堤防は洪水の規模を増大させるだけなので不要であり、
自然の摂理に任せ、ある程度の洪水は受容しようというものだった。
奇しくも明治23年は、湯本義憲(深谷市の近隣、行田市の出身)が衆議院議員に
初当選した年である。湯本は河川に関する行政制度の確立に尽力し、治水翁とも称された。
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