庄兵衛堀川 (しょうべい ほりかわ)

 庄兵衛堀川は延長6Km、流域面積11Km2の中川水系の一級河川。
 埼玉県南埼玉郡菖蒲町三箇〜台を管理起点とし、南東へ流れ、久喜市を経て、
 南埼玉郡白岡町寺塚で隼人堀川に合流する排水河川である。

 明和七年(1770)の騎西領の古来記(埼玉県史 資料編13、p.429)によれば、
 享保13年(1728)に
井沢弥惣兵衛によって、河原井沼(菖蒲町〜久喜市)が干拓され新田開発が
 実施されたさいに、河原井沼の附廻し堀(悪水を排水するための迂回路)として、新規に
 開削されたのが庄兵衛堀の起源である。台村から栢間堀(現在の隼人堀川)への合流地点までの
 長さ3729間(6712m)、平均幅二間(3.6m)の悪水堀とあり、堀の維持管理のために、河原井村、
 台村、三箇村、戸ヶ崎村、除堀村、原村、樋ノ口村、篠津村の8ヶ村によって組合が組織されていた。

 河原井沼は現在の久喜菖蒲工業団地の一帯に存在していたが、
 その面影は工業団地の中心に位置する昭和池(外周2Km)に今も残っている。
(注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。

 管理起点の上流部
(1)管理起点の上流部(上流から)
 左岸:菖蒲町三箇、右岸:菖蒲
 県道12号川越栗橋線の東側、NHK東京ラジオ放送局
 付近の様子。比較的近年に改修されたようで川幅は広く、
 両岸にはフェンスが設置されている。庄兵衛堀川は
 県道12号よりも上流側は水田の中を流れる典型的な
 農業排水路だが、ここから下流約1Kmの区間は
 都市排水路の外観を呈している。事実、この周辺は
 大雨時には自然排水が困難なようで、
 [道路冠水注意]の標識が見られる。
   庄兵衛堀川の木の橋 久喜市除堀
  (2)庄兵衛堀川の木の橋(上流から) 久喜市除堀
   庄兵衛堀川は久喜菖蒲工業団地の南端を流れる。
   附廻し堀の堤防(水除堤)を髣髴とさせる堤防が続く(注)
   右岸一帯には水田が広がっていて、悪水(農業排水)は
   小規模な排水樋門によって庄兵衛堀川へ落とされる。
   右岸には江川が合流している。この付近の水田は
   中島用水(
見沼代用水の支線)によって、かんがいされている。
   なお、この地点から300m下流では笠原沼用水(
中島用水の支線)が
   庄兵衛堀川を伏せ越しで横断している。久喜市内には、
   写真のような
木の桁橋(橋脚はコンクリート)が3基残っている。

 堰場橋の下流付近 白岡町篠津
(3)堰場橋の下流付近(下流から) 白岡町篠津
 東側200mには姫宮落川が並行して流れる。
 庄兵衛堀川は護岸されていないので、岸辺には
 大量のアシが生い茂る。かんがい期なのに水量は
 意外に少ない。写真中央は倒壊した土橋。 

   倒壊した土橋
  (4)倒壊した土橋(上流から) 白岡町篠津
   
堰場橋の下流に架かる木の桁橋。形式は堰場橋と
   ほぼ同じで土橋だが、橋脚はコンクリートとなっている。
   桁が腐って落下しているので通行は不可能。
   下流に見えるのはJR東北新幹線の高架橋。

 西谷橋:半壊した土橋
(5)西谷橋:半壊した土橋(下流から) 白岡町篠津
 東谷橋の上流に位置する。敷板は鉄道の枕木である。
 橋脚(水貫のみで筋違貫がない)は3本とも傾いている。
 人が渡るには問題ないようだ(勇気はいるけど...)
 なお、この橋の下流500mには、庄兵衛堀川の旧流路が
 あり、明治40年(1907)に建設された煉瓦造りの堰、
 
庄兵衛堰枠が残されている。

   隼人堀川へ合流
  (6)隼人堀川へ合流(上流から) 白岡町篠津〜寺塚
   篠津中学校の南側。写真の左が庄兵衛堀川、
   右が隼人堀川(旧・栢間堀)。合流直後の隼人堀川に
   架かるのはJR東北本線の二瀬橋梁。
   合流地点には、[準用河川
 庄兵衛堀川終点]と
   刻まれた標石が建てられている。
   河川の終点にある石碑は、初めて見た。

(注)明治9年(1876)編纂の武蔵国郡村誌の埼玉郡除堀村(12巻、p.185)によれば、
 この堤防の原形は近世に既に存在していたことがわかる。
 ”庄兵衛堤:庄兵衛堀の両岸にあり 南は長十一町二十三間四尺
 北は十一町二十間 共に台村界より原村界に至る 馬踏一間一尺堤敷三間”
 堤防の高さは記されていないが、馬踏一間一尺(2.1m)、堤敷三間(5.4m)は
 現在の規模と遜色がない。また、同書の埼玉郡台村(12巻、p.261)に
 記された唐杉堤もその前身は、河原井沼を干拓したさいの附廻し堀だと思われる。
 ”唐杉堤:水除
 村の中央より起り北方中曽根村界に至る
 
 長十町十七間 馬踏二間堤敷四間 修繕費用は民に属す”
 なお、台村は享保十三年(1728)に河原井沼が干拓されたさいに、
 太田袋村(現在の久喜市太田袋)の武助という者が新田開発した地であり、
 武助新田と呼ばれていた。


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