長楽用水 (ながらく) (その1) その2

 撮影地:埼玉県比企郡川島町

 長楽用水は室町時代(1450年頃)に水路の一部分が開かれたという伝承があり、
 元禄年間(1690年頃)に本格的に整備されたとされる古い歴史を持つ農業用水路だ。
 室町時代の開削が事実ならば、埼玉県の農業用水路としては最古である。
 ただし、用水路の周辺には広範囲に微高地(自然堤防であろう)が見られるので、長楽用水は
 新規に全ての路線を掘ったのではなく、おそらく、都幾川の氾濫跡を水路へと改造したのだろう。
 現在の長楽用水は都幾川の
長楽堰(川島町長楽)から取水し、川島町の北部を西から東へ流れている。
 水路は素掘りで幅は2〜3m程度と小さいが、右岸には高さ2m余の強固な堤防が設けられている。
 これは川島領囲堤(輪中堤防)の一部であり、地元では長楽堤と呼ばれている。

 川島領囲堤は、荒川に関する歴史を扱った書物には、必ず記述されている有名な堤防である。
 川島領(現在の川島町)は北側を
市野川、東側を市野川と荒川、南側を入間川、西側を都幾川
 
越辺川に囲まれている。川と接していないのは町の北西部、長楽から正直にかけてのわずかの
 区間だけだが、そこを流れているのが長楽用水である。長楽用水の路線は、都幾川の左岸堤防が
 川島領の西縁へ、市野川の右岸堤防が川島領の北縁へと移行する区間にある。
 長楽堤は長楽用水の水除堤だけでなく、村囲み堤として川島領を水害から守る、
 重要な役割があったと思われる。

 川島町史 資料編 近・現代2に収録された”川島領六ヶ村全図”という地図には、川島領を
 取り巻く堤防に関して、過去の切れ所と圦樋(樋門)の位置が記されている。また、同図には
 正保元年(1644)から大正二年(1913)までの河川改修箇所と堤防決壊箇所の一覧表も記されている。
 これらの情報は治水上の重要地点を示すものであり、川島領民の水防意識の高さが伺える。
 ちなみに、川島町民憲章には”かわじまを守る堤は心のきずな”の条文がある。

 長楽用水は一見すると、短くて小さな用水路である。しかし、数多くの支線が分岐していているので、
 支線を含めた水路総延長は約30Kmにも及び、実際には川島町の北半分の地域をかんがいしている。
 上流側の支線水路の流末は下流側の支線水路へと排水されていて、用水は高度に反復利用されている。
 それでも、絶対的な水量が不足していて、末端では水が充分に到達しない地区もあったという。
 その対策として現在は、要所要所に揚水機場(ポンプ場)が設けられ、不足水量を補充している。
 幹線水路にも、起点から400m付近に長楽揚水機場(昭和54年竣工)が設けられている。

 なお、長楽用水の流末(使い終わった用水)は主に市野川へ排水されるが、
 
赤城悪水路を経由して荒川、安藤川を経由して入間川へも排水されている。
 安藤川は基本的には排水河川だが、下流部では長楽用水のかんがい悪水を集めて、
 農業用水として再利用していて、取水された水は出丸地区へ送水されている。
 川島領では明治40年から大正5年にかけて、総面積2000haにも及ぶ耕地整理事業が展開された。
 この時に領内の大排水路として現在の安藤川も開削されたのだが、長楽用水の送水形態と
 水利系統自体には、大きな改良は加えられなかったようである(用排水は兼用のまま)。

 長楽用水の流域には江戸時代の堤防と橋供養碑、明治期の煉瓦樋門、大正期の石橋、
 昭和初期のRC樋門、木の橋(流れ橋)などの多彩な土木構造物が数多く現存している。
 用水路の沿線に
火の見やぐらが多いのは、長楽用水が生活と密着していた証だろうか。
 また水路際には数多くの石仏が祀られ、古墳も数基所在する。
 長楽用水に流れる水は透明であり、水路の周辺には木々の緑が多く残っている。
 郷愁を誘う水辺の情景がそこにはある。長楽用水は見どころが多く、親しみやすい用水路である。

 長楽用水の始点
(1)長楽用水の始点上流から 川島町長楽

 都幾川の左岸堤防上から撮影。長楽地区は都幾川の
 左岸に隣接し、川島町で最も標高が高い(約17m)地区だ。
 写真の右下隅に見えるフェンスで囲まれている所が、
 長楽樋管(用水の元圦)の吐口。用水は都幾川の河川敷に
 設けられた堤外水路から流れて来る。吐口の直下流には、
 石造りの水路橋:
長楽用水掛樋(1897年竣工、橋台は
 レンガ造り)が、設置されている。長楽用水の上を別の
 用水路が立体交差して流れている。この用水路は
 都幾川の矢来用水堰(東松山市葛袋)から取水している。
 堰元である長楽地区は長楽用水のかんがい区域ではない。
   京塚樋管の付近
  (2)京塚樋管の付近(上流から) 川島町長楽

   (1)から700m下流。この付近は東松山市今泉と
   坂戸市赤尾との境界であり、川島町の最も西北部である。
   長楽用水は、この地点だけ水路幅が一時的に広くなる。
   
京塚樋管は明治36年(1903)竣工のレンガ造りの
   樋管(水門の一種)。上部に付けられた塔が印象的だ。
   京塚樋管は長楽地区からの農業排水を長楽用水へ
   放流するために設けられている。
   写真(1)の水路橋で長楽用水の右岸側へ運ばれた用水は、
   使い終わった後に、長楽用水へ排水されているのだが、
   これは都幾川へは自然排水できない(水位が高すぎて)から
   である。これも長楽地区の標高が高いためだ。   

 経塚用水の分岐
(3)経塚用水の分岐(上流から) 川島町長楽

 (2)から100m下流。長楽用水から最初に分水されるのが、
 経塚用水。右岸の戸守地区へ用水を送っている。
 写真の左が長楽用水、右が経塚用水。分水工の形式は
 水路に隔壁を設けた自然分水(水路幅による定比)。
 経塚用水は川島領囲堤を越えて、堤内へ入るので、右岸
 堤防には
経塚樋管(大正15年竣工)が設けられている。
 経塚用水の流末は医王寺(北園部)の付近で、
 八ツ保用水(下流で長楽用水から分水)へ合流している。

   
長楽用水の上流部
  (4)長楽用水の上流部(上流から) 川島町長楽

   (3)から200m下流。長楽用水の路線は自然の地形に
   合わせて、決められたのだろう。適度に蛇行を繰り返して
   流れている。用水路は素掘りのままだ。右岸の堤防
   (川島領囲堤)は川島領(現在の川島町)へ洪水が
   進入するのを防ぐ目的で設けられたもの。堤防には
   大木が数多く自生(というより根固めのために
   植えられた)しているので木陰があり、流れには淵や
   淀みも多い(用水路なのに)。
   静閑で自然環境が良いからだろうか、釣り人が多い。

 六地蔵橋の付近
(5)六地蔵橋の付近(右岸から)
 左岸:川島町正直、右岸:川島町戸守

 (4)から700m下流。のんびりとした懐かしい風景が続く。
 
六地蔵橋は大正13年(1924)竣工の石橋。
 右岸の橋詰には六地蔵(正徳四年:1714年)、
 庚申像(寛政五年:1793年)、
 石橋供養塔(宝暦六年:1756年)が祀られている。
 この石橋供養塔は六地蔵橋に関するものだと
 思われるので、六地蔵橋は宝暦年間には既に
 石橋となっていたのだろう。
 なお、ここから400m上流に架かる音羽橋も
 改築されてはいるが石橋である。

   
川店
  (6)川店(かわだな、上流から) 川島町戸守

   六地蔵橋から100m下流。川店は川棚とも書き、馬や農具、
   野菜を洗うために、水路の脇に設けられた場所のこと。
   洗濯所に使われることもあった。かつて農業用水は
   生活用水と不可分であり、田んぼに水がいらない冬期も
   少量が通水されていた。長楽用水には古い構造物だけでなく、
   このように生産基盤と生活基盤が融合した、身近な空間も
   数多く残っている。フェンスや防護柵によって生活空間と
   分断(隔離)された、現代の用水路を見慣れていると、
   長楽用水のような存在は、新鮮な驚きである。
   この付近から右岸堤防(川島領囲堤)は、高く大きくなってくる。
   写真の右岸に見える木立の中には、経塚古墳が現存する。
   歴史が古い用水路ならではの景観である。

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