市野川 - 流川橋の周辺  [市野川のページ一覧

 左岸:比企郡吉見町、右岸:埼玉県東松山市

 市野川橋の付近
↑市野川橋の付近(下流から)
 (右岸:東松山市六反町、左岸:吉見町南吉見)
 市野川橋は流川橋の上流500mに位置する。
 この付近では左岸側には比企丘陵が迫っていて、
 市野川は市野川橋の前後で大きく蛇行している。
 市野川橋の下流の水衝部には大きな淵が形成されて
 いる。上流右岸の堤防際には、小さな沼があるが、
 それは堤防決壊の跡地だろうか(注1)
 写真の奥には吉見百穴と岩室観音堂が見える。
 岩室観音の南側にある鬱蒼とした森は、戦国時代の
 松山城の跡である。松山城跡の崖に掘られているのが
 [人工名所
 岩窟ホテル]。一農夫が20数年かけて
 掘ったもので、名称のホテルは[掘ってる]の転訛だという。

 写真の左は市野川の河川改修記念碑。
 昭和12年に市野川水害予防組合(1町12村で構成、
 現.東松山市、吉見町、川島町)によって建てられた。
 碑文によると、改修工事は昭和7年12月に着工し、
 昭和11年10月に竣功している。荒川の合流地点から
 市野川橋までの約10Kmの改修がおこなわれている。
 県営工事だが国の救農土木事業の補助も受けている。
  吉見百穴
 ↑吉見百穴(よしみひゃくあな) 吉見町北吉見
  市野川橋から上流へ100mの左岸に位置する。
  大正12年(1923)国指定史跡。名前は百穴だが、
  実際は219もの穴がある。古墳時代末期に、
  死者を埋葬する横穴として造られたようである。
  明治時代には、エドワード・モース(大森貝塚の発見者)も
  ここを訪れている。所々に金網が張られた穴があるが、
  そこには天然記念物に指定されているヒカリゴケが自生する。
  吉見百穴は、太平洋戦争末期には地下に広大な
  洞窟が掘られ、軍需工場として使われた。

  吉見百穴は映画やTVドラマのロケ地としても
  有名で、古くは仮面ライダーで
  ショッカーの秘密基地、最近では、トリック2の
  エピソード1(六つ墓村ですね)に使われた。

  なお、流川橋の左岸の丘陵部には羽黒神社が鎮座するが、
  祭神である、お羽黒さまは片目だったという(吉見の昔ばなし、p.6)
  お羽黒さまは大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目になって
  しまったので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされている。
  羽黒神社の池に棲む魚は、みな片目だったという。

 流川橋
↑流川橋の付近(左岸の上流から)
 左岸:吉見町南吉見、右岸:東松山市新宿町
 この付近は市野川が中流から下流へ移る区間だが、
 河床には意外に砂礫が多い。河川改修の結果、
 市野川の流路は真っ直ぐである。堤防天端間の幅は
 80m位しかないのだが、堤防は不相応に高い。
 巨大な堤防越しには、民家が軒を連ねるのが見える。
 流川橋は市野川の冠水橋のうちで最も人口密度が
 高い地域にある橋だ。
 左岸の吉見町側は丘陵地帯となっていて、流川橋から
 東へ1Kmの地点には大沼、天神沼というかんがい用の
 ため池が設けられている。両ため池には明治時代に
 建設された煉瓦造りの水門が残っている。
大沼天神沼

    旧・流川橋
    ↑旧・流川橋(右岸上流から)
     流川とはこの付近の小字(注2)
     堤防に旧・流川橋の橋台が残されている。
     親柱には、昭和11年竣工と刻まれている。
     市野川改修工事概要、埼玉県、1937によれば、
     旧・流川橋は橋台のみ鉄筋コンクリート製で、
     桁と橋脚が木製の6径間の土橋であった。
     昭和11年当時に比べて、現在の市野川の堤防は
     約1m嵩上げされているのがわかる。

(注1)観音寺池と呼ばれる周囲長約200mの沼だが、
 西の水際には
弁財天(水の神様)が祀られている。
 笠付きの立派なもので、文化十四年(1817)建立、
 八十六翁 愚禅の筆による。愚禅は吉見町出身の高僧。
 興長禅寺(比企郡滑川町羽尾)の20世住職を努めている。
 近隣には揮毫の石仏が非常に多い。

(注2)明治時代初期まで比企郡流川村と横見郡流川村の
 2つの流川村があった。明治6年(1873)に両村が合併し、
 横見郡流川村となったが、明治8年に流川村は土丸村、
 柚沢村、根小屋村と合併して横見郡吉見村となった。
 しかし、吉見村は明治14年には北吉見村と南吉見村に分村している。
 さらに紛らわしいのだが、明治22年には北吉見村と南吉見村は
 御所村、黒岩村、久米田村などと合併して横見郡西吉見村となっている。


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