市野川 - 江綱橋の周辺 [市野川のページ一覧]
撮影地:埼玉県東松山市、比企郡吉見町、市野川
↑諏訪堰の付近(下流右岸から) 右岸:東松山市古凍(ふるこおり)、左岸:吉見町南吉見 諏訪堰は慈雲寺橋の上流800mに位置する。農業用水の 取水堰であり、左岸側の市野川用水へ送水している。 諏訪堰は可動堰と固定堰の中間のような古い形態だが、 これは昭和20年頃に流行った形式である。 諏訪堰の上流右岸には、市野川終末処理場があり、 処理された下水が市野川へ放流されている。 右岸の柏崎、古凍地区は市野川に沿って舌状に 延びた台地であり比高が高いので、市野川の右岸側には 堤防は設けられていない。この台地上には10数基から 成る柏崎古墳群が残っている。諏訪堰の南西600mに 位置する、おくま山古墳(全長62mの前方後円墳)が その主墳である。古凍は古郡と表記していた時期もあり、 古い時代から人々が居住していた。律令制時代の 比企郡郡家郷(ぐうけ)だとする説もある。 |
↑市野川の左岸堤防(上流から) 左岸:吉見町江綱(えつな)、右岸:東松山市古凍 慈雲寺橋(永久橋!)の付近。慈雲寺橋は古い歴史を 持つ橋で、武蔵国郡村誌の比企郡古凍村(六巻、p.246)には ”村道に属し村の東方 市の川下流に架す 長六間巾一間 石造”と 記されている。つまり明治時代初期(建設は江戸時代だろう)には、 既に長さ約11mの石橋(形式はおそらく桁橋)だった。 橋名は右岸にあった慈雲寺(現在は等覚院に合併)に由来する。 等覚院の参道には、享保四年(1719)の弁財天(水の神様)が 祀られている。なお、右岸側の柏崎、古凍、今泉地区には 市野川の周辺では珍しく、鷲神社が分布している(しかも全て村社)。 なぜか、古い火の見櫓も多く残っている。 写真の左端は横見排水機場。機場の脇の県道345号線は その前身は市野川の旧堤防(吉見領囲堤の西端)である。 排水機場の下流では横見川(準用河川)が市野川の左岸へ、 新江川(準用河川)が右岸に合流している。 |
↑市野川水管橋(下流から) 右岸:東松山市古凍、左岸:吉見町江綱 慈雲寺橋の下流400mにある。全長258m、3スパン。 ランガー補剛形式、φ1200×2 水管橋の付近から、市野川は左へ約45°蛇行する。 |
↑江綱橋(冠水橋)の左岸 吉見町江綱 市野川水管橋から300m下流。 沼地になっているが、ここは旧河道の跡地だと思われる。 写真の左上が市野川の左岸堤防。 不法投棄された大量のゴミ! |
←江綱橋(右岸上流から) 比企郡吉見町江綱 左岸の高水敷には、延々と河畔林が続き、富貴ゴルフ場へと連なる。 ゴルフ場のクラブハウス付近には、縦土堤と呼ばれる江戸時代に 築かれた控堤が残っている(武蔵国郡村誌の横見郡江綱村には、 立堤と記されている)。これは市野川の左岸堤防に対して直角に 配置された堤防で、江綱地区からの洪水が前河内地区へ流入するのを 防ぐためのものだった。この付近は昔から水防重点地域だったので、 洪水に対して、二重の防御策が施されていた。 (1)市野川の左岸堤防は吉見領大囲堤の一部として、吉見の南端を 市野川の洪水から守る、(2)さらに囲み堤の内部に縦土堤を設けて 内水被害(湛水)を防ぎ、囲み堤決壊にも備えるという仕組みである。 また、市野川からの洪水の逆流を防ぐために、縦土堤の付近には 古い時代から門樋(逆流防止水門)が設けられていた。それらは、 明治期には木製からより強固な煉瓦造りへと改良された。 かつては次郎坊門樋、江綱門樋、大前門樋などが存在したが、 現在残っているのは、永府門樋と五反田堰(跡)のみである。 |
(補足)昭和初期までの市野川の堤防配置
左岸:吉見町南吉見から江綱(慈雲寺橋の付近)までの約1Kmの
区間には、堤防が設けられていなかった。つまり諏訪沼の一帯は
洪水時には市野川からの水が流入する遊水池であった。
北端は県道27号東松山鴻巣までであり、そこから北は丘陵地帯となる。
慈雲寺橋の下流からが吉見領大囲堤であり、連続堤防となっていた。
右岸:東松山市古凍(慈雲寺橋の付近)から川島町梅ノ木(市野川大橋)までの
約2.4Kmの区間には、堤防が設けられていなかった。市野川大橋から下流は
川島領の大囲堤が市野川の右岸堤防となっていた。
川島領大囲堤は市野川大橋の上流から市野川の流路を離れ、
南西へ向かって延びている。このため、東松山市古凍、川島町梅ノ木、
正直、長楽地区は川島領大囲堤の外に位置することになり、
堤外地だった。東松山市古凍から川島町長楽までは、直線距離にして
実に1.5Kmにも及んでいるので、かつては広大な遊水池が
存在していたことになる。
以上をまとめると、市野川には慈雲寺橋を挟んで、上下流に
2つの遊水池が直列に配置されていたことがわかる。
上流左岸は吉見領の堤外地、下流右岸は川島領の堤外地だった。
そして慈雲寺橋の付近では、左岸には吉見領大囲堤が接近して設けられ、
右岸は台地だったので、市野川の流路は狭窄部となっていた。
これは市野川の洪水を、上流左岸の遊水池に一時的に導水し
貯留するためである。同様に徒歩橋(吉見町荒子〜川島町下小見野)付近でも
市野川の流路には、狭窄部が設けられていた。これには下流右岸の
遊水池に導水しやすくするため、荒川の洪水流が市野川へ
逆流してくるのを阻止するため、という2つの目的があったと思われる。
ただし、これら2つの遊水池は市野川が荒川へ合流する地点からは
6Kmも上流に位置していた。