都幾川 - 鞍掛橋の周辺  [都幾川のページ一覧

 
撮影地:埼玉県東松山市、都幾川
 (注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。

 月田橋の下流:コスモス河原
 月田橋の下流:コスモス河原(上流から)
 左岸:東松山市上唐子(かみがらこ)、右岸:嵐山町根岸
 写真の奥に見えるのは鞍掛山。都幾川は月田橋(注)
 上下流で、緩やかに蛇行を繰り返しているので、
 砂礫の堆積によって、橋の周辺には広い河原が
 形成されている。両岸は氾濫原を連想させる低地であり、
 荒地や畑となっているが、河道から200mも離れると
 崖状の地形となる。崖下では湧水も見られる。
 例えば、月田橋の左岸から東へ300mの道路脇
 (崖線下)には不動の滝と呼ばれる湧水があり、近くには
 大山石尊と共に水神と思われる祠が祀られている。 
  水神塔
  水神塔(東松山市指定文化財)
  東松山市上唐子
  月田橋の左岸橋詰にある。
  月田橋の左岸上流の地形は
  段丘崖となっているが、そこには
  
エダ沼、フクベ沼沼など4つの
  かんがい用溜池が設けられて
  いる。比企丘陵の森林が
  創り出した水はいったん、溜池に
  集められ、田んぼで使われた
  後は、都幾川へ流れ込む。  
 鞍掛橋から上流へ1Kmの地点。
 この水神塔は都幾川の筏(いかだ)
 関係者が筏流しの安全を祈願して
 文政年間(1820年頃)に建立したもの。
 荒川水系には筏連中が建立した水神が多い。
 台座には約50名の名前が刻まれて
 いるが、現在の東松山市市域の
 住人だけでなく、小川町、嵐山町、
 玉川村と関係者は広域に及んでいる。
 この付近はドバ(土場:筏の集積地)だった。
 都幾川や槻川周辺の山から切り出された、
 良質の木材(西川材)は筏に組まれて、
 都幾川、越辺川、入間川、荒川を経由し、
 東京の木場まで運ばれた。

 都幾川の水に関わり、それで生活を
 営んでいた人々からは、このような水への
 信仰が生まれた。また、農民にとっても
 水は生産活動に欠かせないものであり、
 日照りの時には雨乞いが行なわれた。
 都幾川の周辺には雨降山(石尊)などの
 風雨を司る神様も祀られている。
 一方、大雨になると都幾川は
 氾濫し、水害を引き起こした。
 そのため、九頭龍などの水の怒りを
 鎮める神様も祀られている。
 →
都幾川流域の水に関する信仰(石仏)

 鞍掛堰
 鞍掛堰(右岸から)
 左岸:東松山市上唐子、右岸:東松山市神戸(ごうど)

 鞍掛堰は、鞍掛橋の上流約100mに設けられている。
 長さ約100mの斜め堰(川岸と直角ではない)で、
 右岸から神戸用水(農業用水)を取水している。
 鞍掛堰の起源は江戸時代に建設された石積みの
 固定堰(もぐり堰)である。現在の施設は部分的に
 コンクリートで改修されているが、基本的な取水方式は
 江戸時代から変わっていない。堰の中心部に見られる、
 切り欠き(高さが少し低い部分)は、筏が流せるように
 した工夫だろう。
 鞍掛堰の詳細
 なお、鞍掛堰から取水した水は、ここから南東200mに
 ある煉瓦造りの水門、永伝樋管(明治34年建設)を
 経由して運ばれている。
 永伝樋管の詳細
 鞍掛堰から取水された水は再び、都幾川へ戻る。

   
鞍掛橋
   鞍掛橋(右岸から)
   左岸:東松山市上唐子、右岸:東松山市神戸(ごうど)

   鞍掛橋は冠水橋(俗にいう沈下橋)。桁位置が低いので、
   大雨で都幾川が増水すると、冠水してしまって渡れない。
   都幾川には近年まで冠水橋が多かったが、不便であるし、
   危険なので、それらは次々と近代的な橋へと架け替えられた。
   しかし下流にはまだ、稲荷橋(東松山市)、長楽落合橋
   (比企郡川島町)が残っている。
   鞍掛橋の右岸側の崖上には鞍掛山(標高約80m)がそびえ、
   崖下は鞍掛淵と呼ばれる深淵となっている。
   都幾川の周辺には湧水が多く、崖から染み出た水は
   都幾川へ流れ込む。湧水は都幾川の清流を育む、
   もう一つの流れである。鞍掛橋の付近には
   野鳥が多く、堰の上で休む鳥の姿も見られる。
   この一帯は、県立比企丘陵自然公園である。

 都幾川の河原
 都幾川の河原(右岸下流から)
 右岸:東松山市神戸、左岸:東松山市上唐子

 鞍掛橋から500m下流。写真の上部が都幾川の左岸で
 段丘崖となっている。一方、右岸は低地なので堤防が
 築かれているが、都幾川の澪筋は左岸寄りに流れている。
 そのため、右岸側には広い河川敷があり、そこには
 雑木林が広範囲に分布している。林は所々が切り拓かれ
 畑が作られている。おそらく民有地が残っているのだろう。
 左岸の崖上には、雑木林の中に原爆の図で著名な
 丸木美術館がある。都幾川は思いのほか清流!で、
 瀬や淵が多く分布し、河相は変化に富む。
 しかもコンクリート護岸は、ほとんど施されていない。
 アユ、ウグイ、ヤマベなどの魚類が生息しているそうだ。

   
都幾川水管橋
   都幾川水管橋と神戸大橋(右岸下流から)
   右岸:東松山市神戸、左岸:東松山市下唐子

   鞍掛橋から下流へ1.3Kmの地点。周囲の木々に対して
   ひときわ鮮やかなのが、都幾川水管橋。上水道の
   供給施設であり、1982年に埼玉県企業局が建設した。
   都幾川の上空を水道水が運ばれている。
   逆三角形ワーレントラス補剛形式、延長約150m、管径φ300mm。
   奥の赤い橋は、神戸大橋(鋼桁、5スパン)。1971年の竣工だが、
   それまでこの地点には、通学用に学校橋という名の仮設橋が
   架かっていたという。なお左岸の唐子神社は、かつての
   村の鎮守であり、旧称は白髭神社だった。現在は諏訪神社、
   八幡神社などが合祀されている。下唐子地区には唐子神社を
   挟みこむように、今も
古い火の見櫓が2基残っている

(注)月田橋とは近年になってからの命名のようで、以前は
 上川橋と呼ばれていたようである。武蔵国郡村誌(明治9年の調査を
 基に編纂)の比企郡上唐子村(6巻、p.260)に、
 ”上川橋:秩父道に属し村の西南
 都幾川の上流に架す 長十二間巾五尺木製”とある。
 秩父道とは現在の県道172号大野東松山線のことである。
 上川橋は長さが十二間(21.6m)、幅が五尺(1.5m)と小さいことから、
 河川敷内に架けられ、明らかに流水部分のみを跨ぐ橋である。
 現代の区分では冠水橋(潜水橋、潜り橋)である。
 なお、秩父往還の橋にしては規模が小さい(特に幅員)こと、橋の名称が
 中途半端なことから、冬場の渇水期にのみ架けられた仮橋の可能性も高い。

 なお、新編武蔵風土記稿(江戸時代末期の編纂)の9巻、p.228によれば、
 源平盛衰記には、”源頼朝が武蔵国月田川の端あをとりにて、野に陣取”と
 記されているという。同書では、この月田川とは都幾川に間違いないとしている。
 上流で合流している槻川が転じて(あるいは勘違いされて)槻田川と記されたと
 の見解である。あをとりは明らかに青鳥だが、この付近からさらに下流である。


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