和田吉野川 〜 農耕地連絡橋1号の周辺 [和田吉野川のページ一覧]
埼玉県大里郡大里町津田〜玉作(たまつくり)、和田吉野川
(注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。
↑桜リバーサイドパーク(右岸から) 大里町玉作(注1) 和田吉野川の右岸堤防の裾に設けられた親水公園。 小さな子供も楽しめるように、公園内にはローラー滑り台、 じゃぶじゃぶ池、自然観察池、バーベキュー場などが 設置されている。ローラー滑り台の上からは、 和田吉野川の両岸に展開する大里町の広大で豊かな 田園風景が一望できる。同時に和田吉野川の堤防が いかに高いかも実感できる。なお、桜リバーサイドパークの 名のとおり、膝喰橋から玉作橋までの和田吉野川の 右岸堤防には延々と桜の並木が整備されている。 駐車場も完備されているので、花見の時期には 大勢の人で賑わうという。 |
↑玉作橋付近の和田吉野川(右岸上流から) 左岸:津田、右岸:玉作 両岸には強固な高い堤防が築かれ、壮大な光景だ。 これは洪水流を一時的に河道に貯留させるように河川計画が なされているからであろう。大雨などで荒川が増水すると、 和田吉野川には荒川から洪水流が逆流してくる可能性がある。 そのさい玉作水門(右上隅に見える)のゲートが閉じられるので、 和田吉野川の洪水流は荒川へ直接排水することが不可能と なるからである。写真中央は、大里比企広域農道に 架かる玉作橋。冠水橋ではなく、抜水橋(笑)である。 なお、玉作橋の右岸にある八幡神社には天保八年(1837)建立の 石尊大権現(常夜燈)が祀られている。洪水を危惧する一方で 雨乞いを祈願していたのである。 |
↑和田吉野川の左岸堤防と通殿川(上流から) 津田橋から撮影。和田吉野川の左岸堤防をはさんで、 写真左側が津田地区、右側が玉作地区。広域農道に 架かる橋も、それぞれ津田橋(通殿川)、玉作橋 (和田吉野川)である。現在、和田吉野川の両岸には 広大な水田が展開しているが、これは昭和初期に実施 された耕地整理による(注2)。通殿川の最下流部には 横見第2号堰(ラバーダム)と通殿川排水機場が設けら れている。写真の奥は玉作水門と荒川の右岸堤防。 |
↑橋?(下流から) 右岸:大里町玉作、左岸:津田 玉作橋と玉作水門の間に設けられている。一見すると橋の ようだが、実は農業用水の取水堰である。横見1号堰といい、 旧横見郡(現.比企郡吉見町)へ農業用水を送っている。 和田吉野川の水は吉見町を経由して市野川へ落とされ、 最終的には荒川へ戻る。江戸時代から続く大規模な 水の循環システムである。横見堰は左右両岸に 設置された2つの樋管が管理橋で連結された形式で、 下流にはラバーダム(ゴム堰)が設置されている。 |
↑玉作水門(上流から) 大里町玉作 荒川から和田吉野川へ洪水流が逆流してくるのを 防ぐための水門。平成13年(2001)竣工。 通殿川(づうどの)が和田吉野川へ合流する地点の上流に 設けられている。鋼製ローラーゲート(幅23.5m、 高さ11.3m)を2門装備。田園風景の中にそびえ立つ 巨大な水門で、とりわけドーム状の上屋は異彩を 放っている。近代改修以前の和田吉野川は玉作水門の 下流付近で荒川へ合流していたので、荒川からの 洪水逆流の頻度は多く、湛水被害は大きかった。 そのため、近世から様々な対策が施されていた。 玉作水門の前身は天保年間(1830年頃)に建造された 大和落門樋。明治21年(1888)には玉造門樋として、 煉瓦造りで、昭和25年(1950)にはRC造りで改築された。 |
↑通殿川排水機場と津田樋管(下流から) 通殿川排水機場(国管理)は玉作水門から100m下流、 通殿川が和田吉野川へ合流する地点に設けられている。 洪水時には和田吉野川の水位が高くなるために、通殿川は 自然排水が不可能になるので、ポンプによる強制排水方式が 採られている。津田樋管も重要度が高い施設なので、 早い時期から最先端の構造へと改良されている。 明治24年(1891)には津田合併門樋として、煉瓦造りで改築された。 通殿川は熊谷市の荒川大橋付近を源流として、荒川と 和田吉野川の間を並行して流れる延長4Kmの一級河川。 吉見堰用水の排水や荒川右岸の切れ所沼も通殿川の 水源のひとつである。また、膝喰橋よりも上流側の沼黒、 高本地区の耕地排水も和田吉野川の左岸堤防の裾に 設けられた水路を経由して、通殿川へ集められている。 |
(注1)玉作(たまつくり)という変わった地名は、玉造と
表記していた時代もある。地名の由来は古墳時代に勾玉(まがたま)などの
石製品を製造していた集落があったからだとされてきた。
しかし、玉作りをしていたのは、玉作から南西へ1.2Kmの船木台地区
(台地上に位置する)だったようである。大里村史 通史編、p.110によれば
舟木遺跡(現在は埋蔵文化財調査センター)から玉作りの工房跡と
想定される遺構が発掘されたという。
余談だが舟木遺跡から西へ1.3Km、冑山地区の東平北交差点
(国道407号線)の東側には、根岸武香(1839-1902)の生家がある。
根岸家は代々、この地の名主を努めた大地主であり、武香も同じく
名主となったが、明治維新後は県会議員、第二代県会議長を歴任している。
埼玉県の政治・教育に多大な貢献をした一方、根岸武香は個人的に
考古学に非常に興味を抱いていた。黒岩横穴墓群(吉見町)の
発掘調査を行い、その存在を世に知らしめたのは彼である。
ヘンリー・シーボルト(フランツ・シーボルトの次男)やエドワード・モース(大森貝塚を
発掘)とも親交が深かった。両人共に冑山村の根岸家へ滞在している。
また、根岸は文化事情にも熱心であり、明治17年(1884)には
増補・改正した形で、新編武蔵風土記稿を刊行している(大里村史 通史編、p.156-160)。
(注2)荒川(和田吉野川)の氾濫によって形成された低地は
耕地整理によって、現在は広大な水田へと変貌している。
津田橋から北へ500mの地点に位置する津田地区の
八幡神社には耕地整理記念碑(昭和19年3月建立)と
津田土地改良開田記念碑(昭和27年3月建立)がある。
耕地整理記念碑:昭和14年5月から16年8月にかけて、71町歩(ha)の
耕地整理を実施したと記されている。
津田土地改良開田記念碑:昭和13年9月の洪水での災害復旧を兼ね、
昭和24年1月から6月にかけて、10余町歩を開田、井戸を8本掘り、
揚水機場を設置したと記されている。
なお、八幡神社から西へ1Kmの地点に位置する高本地区の
高城神社(延喜式内社)にも耕地整理記念碑(昭和15年10月建立)がある。
市田村高本地区を中心に38町歩の耕地整理を実施し、合わせて
水路4976m、道路6207mを改修したと記されている。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、和田吉野川の
周辺の村々は水田率(耕地面積に占める水田の割合)が低かったことがわかる。
概ね50%以下だが、特に高本村は14%、吉所敷村は22%と低い。
例外は相上村と沼黒村であり、水田率はそれぞれ81%、71%となっている。
水田率が低い村々では、物産品として木綿、蚕卵紙(養蚕)などが
記されているので、畑では綿花と桑の栽培が盛んだったのだろう。