丸墓山古墳 (まるはかやま) [丸墓山古墳の周辺] [丸墓山からの展望]
日本最大の円墳(主軸長 105m、高さ 18.9m)。6世紀前半に造られた。
墳丘・堀の一部が復元されている。本来、墳丘は葺き石(ふきいし)で覆われていたらしい。
昭和50年頃までは円墳だというのは疑問視され、航空写真等による調査も行なわれたが、
現在は円墳として公認されている。丸墓山古墳が円墳ではないと疑われた理由は以下のとおり。
(1)埼玉古墳群に現存する大型古墳が全て前方後円墳なのに、丸墓山古墳だけが他の古墳とは
形式が異なる、(2)古墳群最古の古墳というわけではなく、築造年は稲荷山古墳、二子山古墳に
次いでいる、(3)墳丘が葺き石で覆われていたらしい、等である。
仮に丸墓山古墳が円墳ではなく、前方後円墳だとしたら、主軸長が200mを超える大古墳となる。
丸墓山という変わった古墳名については様々な由来がある。
(1)古墳の形態が円墳なので外観が丸いことに加え、かつて墳頂には大日堂が祀られていた。
その遺構と思われる石仏や供養塔は、昭和40年代まで墳頂に残っていた。
それらは現在、丸墓山古墳の西側、旧忍川の右岸(木の橋の脇)に移されている。
(2)聖徳太子の従臣 蘇我の調子丸の墓だという民間伝承。
例えば武蔵国郡村誌の埼玉村(13巻、p.371)には、丸墓山ではなく麿墓山と記述されている。
たしかに雅な御方の墓を連想させるが、直訳すると”俺の墓”山である(笑)。
麿は接尾語として使う場合、麻呂と同義だが、幼少の男子は麻呂ではなく丸とするそうだ。
なお、埼玉県には丸墓山古墳の他にも巨大な円墳が現存している。
埼玉県で2番目に大きい円墳は冑山古墳(かぶとやま、大里郡大里町)だが、
これは日本でも4番目に大きい円墳(主軸長
90m、高さ 11.5m)である。
丸墓山古墳(睡蓮の池から) この池の蓮は古代蓮だそうです。 写真の右端、埼玉用水路に架かる橋の名は石田橋。 |
丸墓山古墳(南側正面から) 墳頂や周囲の樹木はサクラ(公園整備で植えられた修景です) 手前から奥に続く小道が、石田堤の跡(概ね行田市佐間と埼玉の境界) |
東側の大芝生広場から この広場には、かつて小円墳が8基あったそうです。 広場に設けられた円形の植え込みは円墳の跡です。 |
天正2年(1574)、忍城(行田市にあった成田氏の拠城、 別名:浮き城)を攻めた上杉謙信は、丸墓山古墳に登り、 戦況をうかがっています。行田市内の皿尾地区には、 上杉謙信が築いた館、皿尾城跡の石碑も残っています。 また、丸墓山古墳から南側へ延びる小道は、 周辺よりも1m位標高が高くなっていますが、 これは天正18年(1590)に石田三成が忍城を 水攻めにした時の築堤跡です(石田堤)。 その時に石田三成は丸墓山古墳の上に 本陣を設けたと云われています。 丸墓山古墳の頂上に登り、西側を眺めると、 復元された忍城の天守閣(行田市郷土博物館)が 肉眼でも見えます。 |