第3回 埼玉古墳群 最終更新日:2003/06/02
さて、今回は約1500年前の土木構造物...古墳です(巨大な墓ね、念のため)。
現代風に言いかえると、掘削と盛土工(もりどこう)なんだわさ(^^;)
ですから、基本的にはゴルフ場の造成やフィルダムの築造と同じです。←ぎっ、欺瞞だっ!
古墳の周囲には堀が配置してあることが多いけど、あれは古墳の建設資材(土)を採掘した跡です。
古代の土木屋さんも(工期に追われながら)測量・設計をし、図面を引いて、古墳を施工したのですよ。
ちなみに稲荷山古墳は、応神天皇陵とほぼ同じ設計だそうです(古代にも標準設計図集が存在した?)
また、埼玉古墳群の配置は、各古墳の設計基準点間の距離を基に、ある一定比率でなされているそうです。
そのためには、設計基準点(前方後円墳では主軸と前方部・後円部の交点)を決めなければなりません。
これには台形と円の交点を求める必要があります。←私にゃ求められないよぉ。算数は苦手なのさ(汗)
なお、古墳の施工のさいには、斜面角を出すのに丁張りを使っていたようです(現代と同じだ)。
古墳の盛土は排水性を良くし斜面の崩壊を防ぐために、材料に砂質土や粘土を混ぜて、
それを突き固めた互層構造になっています。
■ (国指定史跡)
埼玉古墳群 (さきたま こふんぐん)
埼玉古墳群には、5世紀後半〜7世紀前半に造られた、9基の大型古墳が現存します。
埼玉古墳群の東端にある前玉神社(浅間山古墳)をいれると10基になりますが、浅間山古墳は
埼玉古墳群には含まないようです。古墳の形式は、丸墓山古墳(日本最大の円墳)と古墳跡を除き、
おおむね前方後円墳です。これらの古墳は北関東を支配した豪族(武蔵国造)の墓だとされています。
その勢力を示すかのように、出土した埴輪の製造地は近隣の生出塚窯(おいねつか、鴻巣市)だけでなく、
桜山埴輪窯(東松山市)や末野窯(大里郡寄居町)のような遠方にまで及んでいます。
埼玉県には全長が100mを超える古墳は8基現存しますが、そのうちの5基が埼玉古墳群にあります。
そして二子山古墳が埼玉県最大、稲荷山古墳が埼玉県第二位の大きさを誇ります。
もともと埼玉古墳群は関東ロームの台地上に造られたのですが(この付近は大宮台地の北端に相当する)、
台地が急激に沈降して、周囲には元荒川や忍川、星川の氾濫土が堆積したために、
現在では埼玉古墳群の一帯は低地(水田地帯)となっています。
埼玉古墳群の周辺地域30万m2は、さきたま風土記の丘として、埼玉県が整備を進めています。
しかし、広さが900m×350mもあるので、1つ1つじっくりと古墳を見て歩くと、2〜3時間はかかります(経験者談)。
(なんと埼玉古墳群の広さは、日本で一番面積の小さい市、埼玉県蕨市の約1/15に相当します)
さきたま古墳群、さきたま古墳公園、...利権が絡んで(笑)、いろいろな呼び方があるようです。
埼玉古墳群の古墳は破損が酷かったために、原形へ復元したものが多いのですが、
意外なことに本格的な発掘が行われたのは、稲荷山古墳と将軍山古墳だけです。
さきたま古墳群の案内図 右側の古墳名をクリックすると、その古墳の画像が見れます。
Shiftキーを押しながらクリックすると、別ウィンドウで表示できます。
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丸墓山古墳 稲荷山古墳 将軍山古墳 二子山古墳 瓦塚古墳 鉄砲山古墳 奥の山古墳 愛宕山、中の山、浅間山古墳 天王山古墳跡、梅塚古墳跡 はにわの館 埼玉古墳群の四季 さきたま火祭り 埼玉古墳群の周辺の古墳 小見真観寺古墳 |
場所:埼玉県行田市埼玉(ぎょうだし さきたま)、埼玉県名の発祥地だそうです。 [さいたま]じゃなくて[さきたま]なのですね。大昔には幸魂や前玉とも表記したようです。 利根大堰に続いて、また行田市ですよ。行田市役所の広報課?から表彰されちゃうなぁ(笑)。 ついでだから、さきたま緑道、古代蓮の里、小埼沼も紹介しちゃいましょ(^o^)v JR高崎線 北鴻巣駅 → さきたま緑道 ←5Km→ さきたま古墳群 ←2Km→ 古代蓮の里 ←1.5Km→ 小埼沼 ↓(西0.5Km) 石田堤 ↓(北1.5Km) 水城公園 |
■ 編集後記 〜 埼玉の津に居る船の風をいたみ | |
あいかわらず35万画素デジカメでの撮影です。 発色・キレの悪さは許してね m(__)m 覗くと、いいことあるかも? 参考文献:古代の土木設計、椚 国男、六興出版、1983 |
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