稲荷山古墳 (いなりやま) - 稲荷山古墳の周辺 -
前方後円墳。さきたま古墳群で一番古い(5世紀後半から6世紀)。周濠は長方形で二重。前方部と内堀は復元。
主軸長 120m 後円部:径 62m、高さ 11.7m 前方部:幅
74m、高さ 10.7m(推定)
名称は後円部に稲荷社があったことに由来する。田んぼの中に位置するので田山とも呼ばれていた。
前方部は破壊されてしまったが、残された後円部からは文字の刻まれた鉄剣(現在は国宝)が出土した。
冬に雪が積もると、何故か後円部のみ雪融けが早く、地元の人は不思議に思っていたとのこと。
稲荷山古墳は昭和初期まで(さきたま古墳群が国指定史跡となる以前は)、個人の所有地であった。
稲荷山古墳から1Km南側(埼玉小学校の付近)には、百塚(ひゃくづか)という地名が
残っているくらいだから、とにかく埼玉地区には古墳が多かったのだろう。
稲荷山古墳 (丸墓山古墳から撮影) 前方部はまだ元の高さに復元されていない。 稲荷山の東側700m(写真上部)には、愛宕古墳群があった |
後円部 (南側から撮影) 東側(写真右方向)には、隣接して小円墳が4基あったようだ。 墳頂からは、旧忍川を挟んだ北側にある2基の古墳が見える。 |
竪穴式の石室の跡 鉄剣(国宝に指定)が出土した。 稲荷山古墳の石室は埼玉古墳群では唯一の竪穴式。 永明寺古墳(ようめいじ:羽生市下村君)も竪穴式である。 |
後円部上から 造出し部(つくりだし)を発掘調査している様子。 造出しとは内堀と外堀の間に設けられた祭祀用の場所。 写真上部は丸墓山古墳。 |
■ 前方部
稲荷山古墳の前方部は昭和12年に、沼地埋め立て工事の土採り場となって消滅した。
土はレールを敷設してトロッコで運搬したそうだ。この沼地とは、行田市内の忍沼(現.水城公園)や
稲荷山古墳の北東1.5Kmにあった小針沼のこと。小針沼の跡地は、現在、古代蓮の里になっている。
古代蓮は水城公園にも移植されている。
なお、稲荷山古墳は埼玉県で二番目に大きい古墳(一番大きいのは同じ埼玉古墳群内の二子山古墳)と
されてきたが、最近の研究によると真名板高山古墳(まないたたかやま、これも行田市)の方が大きいようである。
■ 鉄剣(金錯銘鉄剣)
さきたま資料館に展示されている。表面に古代国家の成立過程に関する115文字(漢字)が
刻み込まれていた。もっともこれが発見されたのは発掘後、数十年も経ってからのことだが。
内容は,[私の先祖は代々、親衛隊の長を務めてきた。私は雄略天皇に仕え、天下を治める補佐をした。
471年7月に、これまでの功績を剣に刻んで記念とする。]だそうだ。
この鉄剣を作らせたヲワケという人物、熊本県江田船山古墳から出土した銀錯銘鉄剣との関係等、謎は多い。
なお、古墳時代の出土品に漢字が記されている例としては、金錯銘鉄剣は日本でも最古の部類だという。
■ 愛宕古墳群 稲荷山古墳から東側へ700m、旧忍川の右岸(共栄橋と新橋の間)にあった古墳群。 若王子古墳群とも呼ばれている。若王子山古墳(前方後円墳、全長95m)を主墳とし、 愛宕山古墳などの小円墳が10基ほど分布していたようである。 沼地埋め立て工事の土採り場となって、昭和9年に消滅した。→昭和初期に行田市でおこなわれていた土木事業 現在、跡地は水田へと変わっていて、往時の愛宕古墳群の形跡はまったく残っていない。 ただ、稲荷山古墳から東へ1Kmの地点に位置する耕地中(盛徳寺から西へ100m)には、 愛宕古墳群を偲ばせる3基の石碑が残っている。榊の大木の脇に、愛宕神社(明治36年建立)、 若王子大神(明治39年建立、下埼玉 氏子中)、塞神が祀られている。 若王子大神には”曽根通にあったのを下埼玉へ遷した”と記されている。愛宕神社は 愛宕山の墳頂に祀られていたのを復刻したのだという。 ちなみに、前玉神社にある忠魂碑(明治39年建立)には、若王子山古墳から出土した石が 使われているそうだ。(→私たちの調べたさきたまの歴史、埼玉公民館、1988?) 忠魂碑の題字は松方正義、撰文は大久保利武(大久保利通の三男、第13代埼玉県知事)だ。 なお、上述の盛徳寺(じょうとく)は大同年間(806〜810年)の創建とされ、埼玉県でも最古の部類に 属する古刹であり、境内には奈良時代の礎石が多数現存している。 門前には宝永三年(1706)造立の庚申塔が祀られているが、 八手合掌の青面金剛であり、珍しい様式だ。 |
愛宕古墳群を偲ばせる石碑群 脇の農道はカマタ街道と呼ばれる旧街道。 |
前玉神社の忠魂碑 明治神社の脇にある。高さは4m近い。 |