屈巣沼東堰 (くすぬま)
屈巣沼東堰は、北埼玉郡川里町の屈巣沼(現在はゴルフ場)の東端に設けられた水門。
屈巣沼には排水のために、古くから板堰(木製の堰)が設けられてきたが、明治45年(1912)には
近代的な堰が建設されている。建設年代と周辺の煉瓦水門の分布状況から判断すると、
この堰は煉瓦造りであった可能性が高い。堰は農業用水の取水堰ではなく、
屈巣沼の水位調節や野通川から屈巣沼への逆流防止を担っていたようだ。
そのような目的の堰は、当時の一般的な呼称では門樋や閘門である。
屈巣沼東堰に取り付けられていたゲートは、自動門樋(扉)と呼ばれているので、
形式は観音戸(マイター型)だと思われる。
このゲートを設計したのは、地元出身の工学博士、荒井釣吉(しんきち)。
堀上田:
屈巣沼は見沼代用水が開削された享保年間(1720年)頃から、堀上田方式による沼の干拓が
おこなわれてきた。堀上田とは沼沢地から水を抜くために、縦横に排水路(ホッツケ、田堀、クリーク)を
掘り、水路の掘削時に出た残土を盛って造成された水田のことである。堀田と呼ぶ地域もある。
残土処分と客土を兼ねた合理的な方法だが、排水路のための潰れ地が多く発生するので、
土地利用率(水田化の比率)が低いのが欠点である。また、開田は排水不良田が多く、
土地生産性は低かったようだ。排水効果と土地利用率を高めるには、
排水路の幅は狭く、深さは深くしなければならないが、人力での掘削には限界があった。
しかし、堀上田は建設機械や動力排水施設(ポンプ)がない時代には、一般的な干拓方法だった。
高度な土木技術的は必要としないので、堀上田方式による小規模な干拓は、おそらく
近世以前から行われていたと推測される。
近年は土地改良事業等によって、堀上田は消滅する傾向にあり、開発当初の大規模な分布形態が
全面的に残っていることは稀だが、それでも部分的に堀上田が残存している地区もある。
屈巣沼の近隣では、関根落の沿線(行田市荒木から羽生市上新郷の行政界付近)に残る。
堀上田は航空写真などを見ると、水田が櫛の歯状に並行に分布しているのが確認できる。
なお、干拓のさいには沼沢地へ流入する水を遮断するための築堤(水除堤と呼ばれることが多い)と
沼沢地への流入水を迂回させるための排水路(附け廻し堀と呼ばれることが多い)が設けられる。
水除堤と附廻堀は干拓の終了後も、干拓地を水害から守る役割を果たす。
近隣の小針沼(行田市)、小林沼・栢間沼(菖蒲町)も、堀上田方式で干拓された。
小針沼、小林沼・栢間沼の跡地には、中堤、森下堤と呼ばれる水除堤がそれぞれ残っている。
↑屈巣沼東堰の碑 (北埼玉郡川里町屈巣) 川里町中央公園内、弁天池の中島、厳島神社の 脇にある。この碑は再建されたもの。 なお、厳島神社とは水の神様である。 |
←屈巣沼東堰竣功記念碑 [表] 明治四十五年三月 自動門樋設計者 工学博士 荒井釣吉閣下 [裏] 工事関係者名と共に、 設計者 北埼玉郡土木技手 岡島浅五郎と記されている。 ゲートを設計したのが、 荒井釣吉、堰を設計したのが、 岡島浅五郎であろう。 荒井釣吉は川里町出身の人物で、 内務省の東京土木出張所や 仙台土木出張所に勤務している。 |
←現在の屈巣沼東堰 (北埼玉郡川里町屈巣〜鴻巣市郷地) 奥がかつての屈巣沼。 屈巣沼東堰は4号堀悪水路(屈巣沼の周囲に 掘られた農業排水路)に設けられている。 悪水路の水は奥から手前に流れ、 700m下流で野通川に排水される。 現在のゲート形式は呑み口側(写真奥)に、 スルースゲートが3門であるが、 吐き口側(写真手前)には、マイターゲートを 取り付けていたと思われる金具が残っている。 かつての屈巣沼東堰の面影が偲べる。 |
(参考文献) かわさとの民俗 第一巻、川里町教育委員会、1996