旧忍川の古い堤防群 (きゅう おしかわ) [旧忍川のページ一覧]
撮影地:埼玉県行田市、北埼玉郡川里町
中堤の跡
↑中堤の跡(旧忍川の左岸堤防から) 行田市長野〜小針 |
旧忍川から長野落までの約700mの区間が、堤防の景観を残している。 現在は天端が県道364号線であり、県道の西側(写真の左)には行田浄水場、 東側(写真の右)には古代蓮の里がある。この一帯は昭和30年代まで、 小針沼と呼ばれる沼地であった。小針沼には沼の中央に中堤と 呼ばれる堤防が設けられ、上沼と下沼に分割されていた(注)。 中堤は北埼玉郡長野村(現.行田市長野)と太田村(現.行田市小針)の 境界でもあった。中堤は武蔵国郡村誌の埼玉郡埼玉村(13巻、p.370)に 以下のように記されている。 ”埼玉沼の東に沿ひたる水除なり 下忍川堤の中程より接して 北の方小針村界に至る 其間四町十間馬踏二間半堤敷八間 修繕費用は是亦民に属す 近傍十九村の関係なり” 下忍川堤とは旧忍川の左岸堤防のことであり、中堤は現在の 新橋(県道364号線)付近で、旧忍川の堤防にすり付いていたようだ。 明治9年の時点で、中堤の規模は長さ454m、馬踏(天端幅)4.5m、 堤敷(堤防の敷幅)14.5mであったことがわかる。水除堤としては 天端幅がかなり広いので、当時から道路として利用されていたのだろう。 その後、中堤は昭和初期の小針沼の埋め立て工事に関連して 増築され、現在に至っている。なお、新橋は古い歴史を持つ橋のようで、 前掲書には”下忍川に架す長十五間(約27m)の土橋”とある。 |
(注)小針沼の干拓は延宝年間(1673-1681)から行われていたとされる。中堤の跡地の西側、
長野地区の小字は新田だが、近世初期の新田村である。忍領や近隣の羽生領では近世初頭の新田が多い。
小針沼の本格的な干拓は見沼代用水の開削に伴い、享保年間に実施されたが、
沼の干拓に伴い、元来あった忍領の悪水溜井の機能が消失したために、下流側の小針村では
湛水被害が多発した。そこで小針沼の西側は元の沼地へと戻すことになり、
宝暦四年(1754)に小針沼の中央に堤防が築かれた。これが中堤である。
下流の小針村から見れば、村囲いの水除け堤ということになる。
参考文献:見沼土地改良区史、p.169
大和田堤の跡
↑大和田堤の跡 行田市埼玉 ごみ焼却場の付近の右岸堤防から南東に向かって、 川里工業団地の西側まで残る旧堤防の跡。 川里町の付近では堤防天端が農道となっている。 小針沼(埼玉沼)の干拓に関連して築かれた堤防だろう。 現在は周囲は一面の水田であり、沼地の面影はないが 500m南には小埼沼の跡地がある。 大和田堤は武蔵国郡村誌の小針村の項(13巻、p.205)に 長さ138間(約250m)、馬踏(天端幅)4尺とある。 |
↑旧忍川水管橋の付近 川里町赤城 川里工業団地の北側から、旧忍川の右岸堤防に向かって 延びた堤防。写真の上部が旧忍川の右岸堤防。 右岸堤防から直角方向に長さは約400mだが、堤防の形が はっきりと残っている。これは大和田堤の延長だと思われる。 配置の仕方が村囲み堤なので、旧忍川や小針沼の氾濫水が 川里町方面(旧赤城村)へ流下するのを防ぐために 設けられたものであろう。 |
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