兜川 (その1) (その2)(その3

 兜川(かぶと)延長約7Km、流域面積17.1Km2の荒川水系の一級河川。
 比企丘陵の山々に囲まれた小川盆地を流れる小河川だ。
 埼玉県比企郡小川町勝呂を管理起点とし、国道254号線にほぼ並行して、南東へ向かって流れ、
 小川町小川で槻川の左岸へ合流する。槻川は都幾川の支川であり、都幾川は越辺川の支川、
 越辺川は入間川の支川、そして入間川は荒川の支川であり、最後は東京湾へ流れ込む(ふぅ)。
 兜川はその延長の割には支川が多く、主な支川は上流から、野竹川(準用河川)、木部川、
 桜沢川、飯田川(準用河川)、角山川(準用河川)などがある。
 これらの支川は金勝山と宮ノ倉山に源流があり、ほとんどが砂防指定河川となっている。

 槻川の支川であることから、兜川は[小川]と呼ばれていたことがあり、
 それが小川町の名前の由来になったとも言われている。
 小川町を中心とする比企郡の和紙産業を支えたのは、兜川と槻川の清流だったが、
 現在の兜川は周辺地域の都市化に伴って、かなり生活排水が流入しているようで、
 中流部以降の水質は見た目にも良くない。
 なお、兜川は農業用水の水源としても利用されてきたようで、数箇所に
 取水堰(形式は固定堰)が設置されているが、もう使われていないものも多い。

 兜川の直接の源流である木呂子川と西浦川は、昭和47年から同59年にかけての
 県費単独砂防事業(途中から国庫補助を受ける)によって、コンクリート護岸が施され、
 上流部にはそれぞれ砂防ダムが1基設けられている。

 兜川の源流:木呂子川
(1)兜川の源流:木呂子川(下流から) 小川町木呂子(きろこ)
 吉野神社の付近。この辺りは3つの郡の境界であり、
 ここから北西(写真の右方向)へ500m進むと、大里郡
 寄居町に入る。また南西(写真の奥)へ1.8Km進むと、
 秩父郡東秩父村である。木呂子川は延長約3.5Kmの
 河川(砂防指定)。源流は木呂子地区にあり、
 流路の大半も同地区にある。
   兜川の源流:西浦川
  (2)兜川の源流:西浦川(下流から) 小川町勝呂
   (1)から南へ300m、白鳥神社の付近。
   西浦川も木呂子川と同様に愛宕山(寄居町と東秩父村の
   境界付近)に源流がある。延長約2.2Kmの砂防指定河川であり、
   北東へ向かって流れ、木呂子川と合流する。
   河床勾配は見た目よりも急なのだろう、落差工と床固め工が
   連続して設けられている。

 兜川の管理起点
(3)兜川の管理起点(下流から) 小川町勝呂
 木呂子川(奥)と西浦川(左)の合流する地点が、兜川の
 始まりである。川幅は約8m。西山橋(木呂子川)の右岸
 橋詰には、一級河川の管理起点標が設置されている。
 また、左岸には治水の碑(昭和59年建立、木呂子川と
 西浦川の改修記念碑)と
道標(竹沢青年団、昭和4年
 建立)、2基の馬頭観音(文政9年)もある。西浦川の
 左岸には石仏群があり、地蔵は
橋供養塔を兼ねている。

   
JR八高線竹沢駅の付近
  (4)JR八高線竹沢駅の付近(上流から) 小川町勝呂
   (3)から400m下流。竹沢駅の名は旧竹沢村に由来する。
   この付近は小川町と合併する昭和30年まで、比企郡竹沢村だった。
   兜川は国道254号線の南側に並行して、頻繁に蛇行を
   繰り返しながら、流れている。写真の上部に見えるのが
   国道254号線だが、幅員が狭いので、歩行者専用道は
   テラス状に兜川の方へ張り出して設けられている。
   兜川の河床には岩と礫が多く分布する。

 
(5)飢饉警告の碑(兜川の左岸) 小川町勝呂
 (4)から500m下流。国道254号線の脇に建てられている
 のが、天保十三年(1842)建立の飢饉警告の碑。
 小川町指定文化財
 歴史資料(昭和38年)である。
 天明年間(1785年頃)に起きた浅間山の噴火、大洪水、
 飢饉の教訓から、当時の勝呂村の名主が飢饉に備えて、
 平時からの準備を怠ってはいけないことを戒めるために
 建てたものだという。碑文は約170文字の漢文。

   
東上線東武竹沢駅の付近
  (6)東上線東武竹沢駅の付近(上流から) 小川町靱負(ゆきえ)
   (5)から500m下流。ここまで兜川は国道254号線の南側を
   並行して流れて来たが、この付近からは北側を流れる。
   東武竹沢駅前郵便局の付近は個性的な橋梁が目白押しだ。
   奥から
兜川第二橋梁(東武東上線)、古い道路橋、
   
兜川第二橋梁(JR八高線)。写真には写っていないが、
   手前にも道路橋がある。なお、ここから100m下流では
   野竹川(準用河川)が兜川の左岸へ合流している。

(補足)このページの区域は現在は比企郡小川町に属するが、
 明治22年(1889)までは男衾郡(おぶすま)だった。明治22年4月に
 男衾郡木部村、木呂子村、勝呂村、靱負村が合併して比企郡竹沢村が
 誕生している。男衾郡は明治29年(1896)に大里郡へ編入された。
 幕末に竹沢村一帯の領主だったのが、山岡鉄舟である。
 小川町の名物として知られる忠七めしは、鉄舟の命名である。
 なお、靱負という変わった地名は群馬県伊勢崎市にもある。読みも同じである。


戻る:[河川の一覧] 兜川:[上流へ]下流へ