繰舟落 (その2) (その1)
撮影地:埼玉県羽生市
(1)厳島神社の付近(下流から) 右岸:羽生市下羽生、左岸:北袋 県道84号羽生栗橋線の橋から撮影。写真左上の森が 厳島神社(県立羽生高等技術専門学校の北に位置する)。 厳島神社の北側(写真の上中央)では岩瀬落は中川に、 30mまで接近するのだが、何故か合流はせずに、 流路を不自然なまでに直角に変えている(注1)。 ここから下流は完全に排水専用となり、 取水堰は設けられていない。 |
(2)岸辺の石仏群(上流から) 左岸:羽生市北袋、右岸:下羽生 (1)から500m下流。右岸の岸辺には出井熊吉翁記念碑、 新渠の碑(明治28年建立)、二十三夜塔、観音像が残っている。 新渠の碑には、北袋村の神明耕地からの悪水を岩瀬落へ 落とすために、明治4年に新たに幅二間(3.6m)、長さ百五十間 (273m)の渠(水路)を開削したことが記されている(注2)。 これに尽力したのが下羽生村の出井熊吉翁である。 なお、左岸の北袋集会所には、寛政九年(1797)建立の 石橋供養塔が残っている。 |
(3)繰舟落を横断する水路橋(下流から) 羽生市北袋 (2)から300m下流。繰舟落は旧北袋村の西端から 南端を流れる。この付近から名称は岩瀬落ではなく 繰舟落となる。流路は東へ向かうようになり、 後は終点まで東流する。繰舟落には鋼製の古い水路橋が 架けられていて、農業用水を左岸側へ送水している。 |
(4)大沼工業団地の付近(上流から) 羽生市大沼 (3)から900m下流、中の橋の付近。大沼工業団地は大沼と小沼の 跡地に建設されている(昭和46年造成)。大沼は堀り上げ田方式で 干拓されて農地となったのだが、現在は工業団地である。 団地の中央を流れるのが中川であり、繰舟落は南端を流れる。 工業団地の区間だけ、繰舟落の川幅は約12mに拡幅されている。 |
(5)中手子大橋の付近(上流から) 羽生市中手子林 (4)から1Km下流。工業団地を抜けると川幅は元に戻り、 約8mとなる。中手子大橋は平成14年竣工の新しい 橋だが、名前とは裏腹に実態は農道橋である。 中手子大橋の100m上流に架かる繰舟橋は古い橋で、 竣工は昭和26年。かつての旧街道:千津井川岸道の橋だ。 この街道には道標や旧中島村の道路元標が残っている。 |
(6)繰舟落の終点(上流から) 左岸:羽生市北荻島、右岸:中手子林 (5)から500m下流。手前が繰舟落、奥が中川。 自然合流であり、合流地点には水門(逆流防止)は 設けられていない。合流地点の導流堤を介して、 繰舟落と中川それぞれに古い橋が架けられている。 右岸にはこの付近が沼地だった頃の面影を残す池があり、 野呂揚水機場が併設されている。ファームポンドであろう。 |
(注1)武蔵国郡村誌の埼玉郡北袋村(13巻、p.84)には、岩瀬落(悪水堀)について、
”村の西少北隅 上羽生村界より来り 南境を東流して上手子林村界に至る〜以下.略”とあり、
一方、上羽生村(13巻、p.72)には”本村字宮田より起り東北流して下羽生村
北袋村の界に至て天神堀に入る〜中略〜本村外一町七ヶ村の悪水を流下す”とある。
天神堀とは現在の中川の流路に相当するので、岩瀬落は写真(1)の地点で
2つに分流し、一方が中川に合流し、もう一方は東流して(厳島神社の脇で流れを
直角に変えて)いたと考えられる。
なお、武蔵国郡村誌に繰舟落の記述が表れるのは、かなり下流になってからで、
下手子林村(13巻、p.38)に”繰舟落:深処八尺浅処七尺 広処七間狭処四間
村の北部を流る 上手子林村より来り東流して天神堀の中流に合す
其長十二町三十間”と記されている。
合流地点から十二町三十間(約1360m)遡った地点は、写真(4)の
中の橋の付近である(ただし、当時の流路が現在とほぼ同じであれば)。
以上から類推すると、岩瀬落は中川と大沼へ排水、
繰舟落は大沼から天神堀へ排水していた落の可能性が高い。
(注2)武蔵国郡村誌の北袋村(13巻、p.84)には、これに関した興味深い記述がある。
”堤:逆水除の為に設く 村の東方にあり岩瀬落堀堤より
宮田落堀に接続す 長百九十四間高六尺境敷二間”
北袋村は村の北に宮田落(現在の中川)、西南端に岩瀬落が
流れているので、東側を除いた三方が悪水路に囲まれていた。
ところがこの東側に逆水除(洪水の逆流防止)のために長さ353m、
高さ1.8mの堤防が築かれていたというのである。これは村の東側に
位置した大沼からの逆流を防ぐために設けられたのだと思われる。
宮田落と岩瀬落は大沼へ排水していたのである。
なお、新編武蔵風土記稿(文政年間:1830年頃の調査を基に編纂)によれば、
北袋村(10巻、p.290)は、”元は上手子林村に属せし原野にて、
其村より北方に張り出せし所を開きし地なれば此名を負へり”とあるので、
大沼周辺の原野(袋状の沼沢地だろう)を開拓した新田村であることがわかる。