元荒川  慈恩寺橋から大野島水管橋まで  [元荒川のページ一覧

 撮影地:埼玉県岩槻市

 元荒川の旧流路
(1)元荒川の旧流路(下流から)
 右岸:岩槻市宮町一丁目、左岸:岩槻市南辻
 慈恩寺橋から県道65号岩槻幸手線を500m南下した地点。
 元荒川の右岸には自然堤防と旧流路が残っている。
 旧流路の上流部には、カシやクヌギが茂る雑木林が
 分布していて、約0.9haが岩槻市赤間堀ふるさとの森に
 指定され保全されている。なお、県道65号線はかつての
 日光御成道(それ以前は鎌倉街道中道)。慈恩寺橋の
 左岸には、天明元年(1781)建立の
石橋供養塔
 残っていて、歴史を感じさせる。
   東武野田線の付近
  (2)東武野田線の付近(下流から)
   右岸:岩槻市宮町二丁目、左岸:岩槻市東岩槻三丁目
   写真(1)から700m下流。東宮歩道橋から撮影。
   元荒川の旧流路は東武野田線の
元荒川橋梁の100m上流で
   元荒川の右岸へ合流している。写真の左端が旧流路。
   かつての元荒川はかなり、蛇行して流れていたことが
   わかる(注1)。旧流路には水源が無いので、
   常時は水は流れていない。旧流路と現流路が
   合流する付近には調節池を建設中である。
   元荒川の周辺部には新興住宅地が多く見られる。

 新曲輪橋の付近
(3)新曲輪橋(しんくるわ)の付近(下流から)
 右岸:岩槻市城町二丁目、左岸:岩槻市南平野
 写真(2)から1.5Km下流。岩槻大橋(国道16号線)から
 上流を撮影。新曲輪橋(注2)の親柱の上には、
 人形の町にふさわしく、ブロンズ製の岩槻人形が
 飾られている。元荒川の流域には鴻巣市、岩槻市と
 なぜか人形の産地(共に宿場町)が立地する。
 新曲輪橋の右岸上流に広がる森は岩槻公園。
 岩槻城(太田道灌が築城したとされる)の跡地だ。
 広大な園内は桜の名所でもある。なお、新曲輪橋の
 上流に架かる
岩槻橋(ゲルバー桁)は昭和16年(1941)
 竣工の古い橋だ。岩槻橋は旧国道16号(現在は
 県道2号線)の橋梁だった。岩槻橋の左岸上流の
 稲荷神社の脇には、昭和26年建立の興農の碑が
 建っている。陸軍飛行場(跡地はしらこばと水上公園)の
 滑走路のコンクリートを利用した珍しい碑だ。岩槻市の
 区域では昭和20年代後半に盛んに土地改良事業が
 行われたようで、末田須賀堰の右岸にも昭和29年
 建立の柳橋用水の竣工記念碑がある。 

   大光池と増野川の付近
  (4)大光池と増野川の付近(東から) 岩槻市長宮
   写真(3)から東へ400m。岩槻大橋の下流100mの左岸から
   増野川(農業用水路)が取水している。増野川は旧豊春村
   (現在の春日部市の西部地区)をかんがいする。
   流路の一部は、かつての隅田川の跡だと思われる。
   近世以前には隅田川は利根川の主流であり、現在の春日部市
   梅田付近で
古利根川から分かれて南流し、岩槻市長宮では
   荒川(現在の元荒川)を右岸へ合流していた。現在、増野川が
   元荒川から取水している付近が、往時の隅田川と荒川の
   合流地点だ。つまり、近世以前は長宮から下流の元荒川は
   隅田川だったことになる。近世以前には国境だったからだろうか、
   この付近の左岸側には、香取神社が広範囲に分布している。
   なお、元荒川の左岸からは岩槻市と春日部市の境界に沿って、
   北方へ大光寺堤と呼ばれる隅田川の旧堤防が残っている。
   これは隅田川が形成した自然堤防の上に、盛土を施したもので、
   春日部市内の
新方領囲堤に繋がっている。新方領囲堤は奥州道の
   跡でもあり、堤防で囲まれた中を流れるのが
古隅田川である。
   増野川の起点付近には写真のような沼(大光池または摺鉢池)が
   2箇所にある。古隅田川の氾濫の跡地(落ち堀や切れ所)であろう。

 岩槻市文化公園の付近
(5)岩槻市文化公園の付近(下流から)
 右岸:岩槻市村国、左岸:岩槻市大野島
 写真(3)から1.6Km下流。岩槻市文化公園の南端には、
 写真のような鬱蒼とした自然林(一部は散策の森と
 呼ばれている)が広範囲に残っている。この付近は
 かつては大沼と呼ばれる湿地帯だった。現在も林の
 中には数箇所に沼が残っている。明治17年の
 迅速測図によれば、元荒川は2派に分かれ、
 現在の公園の外周を取り囲むように流れていた。
 公園の南端、第三進入路の付近には、
 渋江鋳金遺跡(埼玉県指定旧跡)がある。
 中世末期から近世初期にかけての鋳物工場の跡地だ。
 なお、岩槻市文化公園の対岸では、元荒川から
 武徳川(農業用水)が取水している。武徳川の流末は
 主に
新方川へ排水され、最終的に中川へ落ちる。

   
大野島水管橋の付近
  (6)大野島水管橋の付近(上流から)
   左岸:岩槻市大野島、右岸:岩槻市飯塚
   岩槻大橋から1.7Km下流、永代橋(末田須賀堰)からは1.2Km
   上流に位置する。大野島という地名はかつて、この地が元荒川と
   古隅田川に囲まれて、島のような形態となっていたことに
   由来するのだろう。大野島の北縁には古隅田川が形成したと
   思われる自然堤防が広範囲に残っている。大野島水管橋は
   昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で
   橋長は170m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を
   水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。
   かつて大野島水管橋の上流付近には、村国の渡しと呼ばれる、
   渡船場があった。大野島水管橋の左岸橋詰には宝永三年(1706)
   建立の道標(ぢおんじ道)がある。
   水管橋の上流左岸からは、三大川(農業用水)が取水し、
   旧川通村(注3)の三ヶ村(大口、大谷、大戸)をかんがいしている。

(注1)元荒川の旧流路は東武野田線の下流からさらに蛇行して、
 現在よりも東側を流れていたようである。明瞭な河道跡は残っていないが、
 新編武蔵風土記稿(文政年間:1830年頃の調査を基に編纂)の
 岩槻領平野村(10巻、p.128)には、元荒川が村の東側を流れていたと記されている。
 ”元荒川:村の東を流る、川幅四十間余、或は二十間許の所もあり”とある。
 元荒川は岩槻市と春日部市の境界付近を流れていたことになる。
 なお、川幅が約36mから72mと大きく変化しているが、おそらく河道には
 土砂の堆積によって、大規模な中州が形成されていたのだろう。

(注2)曲輪とは城郭の一画をさす言葉だが、それが橋名に使われているあたりは、
 さすがに城下町だ。新曲輪橋は古くからある橋で、
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡岩槻町(11巻、p.367)には、
 ”村道に属し町の東方
 田中橋の下に架す 長十間巾二間 土造”とある。
 
土橋(木造の橋で橋面には土を盛って舗装)だが、橋長は約18mと短い。
 元荒川の河道に中州が形成されていた地点に架けられていたのだろう。
 なお、田中橋は現存しないが、この橋は南辻地区付近にあったと思われる。
 元荒川の旧流路を日光御成道(現在の県道65号線)が横断する地点で
 あろう。なお、新曲輪橋の付近には、かつて岩槻藩の曲輪河岸があった。
 前掲書によれば、荷船7艘(六十石積)、小船23艘なので、明治初期になっても、
 河岸場としての規模は大きかったといえる。六十石積の荷船だと米俵(60Kg)が
 150俵積める。元荒川は綾瀬川と比べると、舟運はそれほど盛んではなかったのだが、
 (河道を完全に塞いでしまう取水堰が数多く設けられていたため、舟運には水位が
 不足したことと、堰が通船の障害となったことが原因だろう)
 岩槻市から越谷市にかけての下流域では所々に河岸場があり、船着場や
 船問屋が設けられ、荷物の積み下ろしがおこなわれていた。

(注3)元荒川の左岸側は、昭和29年(1954)に岩槻町と合併するまでは、
 南埼玉郡川通村だった。明治22年(1889)に9村が合併して誕生した川通村だが、
 その村域は現在の東武野田線の下流付近から越谷市との境界までであり、
 非常に広かった。そのためか、地理的にほぼ村の中心となる大口地区に村役場が
 置かれていた。JA川通支所が旧村役場の跡地である。
川通村の道路元標
 大正時代に設置され平成元年頃まで、旧村役場付近に置かれていたが、
 道路整備のために引き抜かれ、現在は岩槻郷土資料館に収蔵されている。
 なお、旧川通村の付近では元荒川の左岸は沖積低地だが、
 右岸は台地で処々に段丘崖が見られる。右岸の飯塚地区の法華寺には
 寛保元年(1741)建立の
石橋供養塔が残っている。


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