元荒川 〜 末田須賀堰から元荒川橋まで [元荒川のページ一覧]
撮影地:埼玉県岩槻市、越谷市
(1)金山堤(西から撮影) 岩槻市大谷〜大口 大野島水管橋から東へ500mの地点。 金山堤は元荒川の左岸堤防へと接続する旧堤防である。 写真右端が元荒川の左岸。金山堤は武蔵第六天神社の 上流付近から始まり、断続的ながら大谷、大口地区まで 約1.1Kmに渡って形跡が残っている。周辺の水田との 比高差は1m程度と小さいが、堤防の上には写真の様に 鬱蒼とした雑木林が形成されていて、堂々とした様相だ。 この堤防は水防のための村囲み堤(人工堤防)ではなく、 新編武蔵風土記稿の大口村によれば、”奥州道の跡”だと いう。鎌倉街道中道であり、かつて源頼朝が奥州藤原氏を 追討するために、この道を通ったのである。金山堤は 比高が小さいことから、全面的に築堤したのではなく、 本来は自然堤防だったと思われる。 土質は砂やシルトが多いように感じられた。古代に 隅田川(現.古隅田川)の流路が氾濫変動したさいに、 土砂が堆積して形成されたものだろう。 |
(2)末田須賀堰の付近(上流から) 左岸:岩槻市新方須賀、右岸:岩槻市末田 写真(1)から南へ900m。この付近の元荒川は川幅が急に 広くなる。自然が豊かで、景観は素晴らしい。 水辺には絶滅危惧種のキタミソウが自生しているようだ。 末田須賀堰は、水資源開発公団が管理する農業用水の 取水堰(下流側に併設された管理橋は永代橋)。 古くは大戸の堰と呼ばれた。歴史の古い堰であり、 下流右岸には、寛延三年(1750)建立の堰安全祈願碑が祀られ、 堰の高さを規定した御定め杭が残っている。この付近の両岸には 弁才天と水神宮も祀られている。元荒川の水は末田須賀堰によって せき止められ、水位を上げることで(注1)、右岸の末田大用水、 左岸の須賀用水へと送水されている。両用水のかんがい地区は かつての岩槻領と新方領である。元荒川は起点から末田須賀堰までの 区間には、数多くの取水堰(農業用水)が設けられていて、 用排水兼用として使われているが(注2)、ここから下流は 完全に排水専用河川となる。 |
(3)三野宮橋の付近(上流から) 左岸:越谷市三野宮、右岸:越谷市野島 写真(2)から1.5Km下流。三野宮橋は右岸の浄山寺 (野島地蔵尊)へと通じる古い歴史を持つ橋だ(注3)。 現在は元荒川の左岸堤防は、県道325号線を兼ねて いるが、かつては香取神社のすぐ南側の道路が 元荒川の左岸堤防だった。三野宮地区には元荒川の 左岸沿いに堤外という字名があるのは、その名残りだ。 なお、香取神社には妙見星神と水神社が祀られている。 また、埼玉県立大学の付近には、須賀用水の橋の袂に 延享元年(1744)建立の石橋供養塔が残っている。 右岸堤防は三野宮橋の下流付近から、遊歩道として 整備されている。 |
(4)元荒川遊歩道(上流から) 左岸:越谷市大道、右岸:越谷市砂原 写真(3)から1.1Km下流、砂原土手(通称)の付近。 元荒川の右岸堤防は、昭和初期に県道48号越谷岩槻線が 開通するまでは、岩槻道だった。遊歩道には両側に雑木が 生い茂り、旧街道の面影が色濃く残っている。堤防の上には 今も馬頭観音や個人の墓標など数基が立っている。 堤防の川裏裾には素掘りの用水路(末田大用水の支線)が 流れている。なお、ここから500m下流右岸の砂原久伊豆神社にも、 元文四年(1739)建立の石橋供養塔が祀られている。 周辺の村々から資金や助力を得て、石橋を建設したさいに 建てられたものだ。石橋は元荒川ではなく、付近の用水路に 架けられた。元荒川は石橋を架けるには川幅が広すぎた。 |
(5)〆切橋の付近(上流から) 左岸:越谷市南荻島、右岸:越谷市砂原 写真(4)から900m下流。〆切橋も古い歴史を持つ橋。 現在の橋は昭和12年(1937)竣工、古典的な様式の RC桁橋だ。かつてこの付近(野合)では、元荒川は北へ 向かって(写真の左方向へ)、大きく蛇行していて、 左岸の袋山地区を取り囲むように流れていた。 その蛇行は新流路を開削することによって、宝永年間 (1710年頃)に廃止された。〆切橋から下流の元荒川橋 までの現在の直線流路は、その時に開削されたもの。 同時に〆切河岸も設けられた。なお、〆切橋の上流 左岸は水衝部だが、護岸が施されてないので、岸辺は 水流によってかなり侵食されている。河川敷には砂が 大量に堆積している。釣り人が設けた桟橋も多い(笑)。 |
(6)宮内庁埼玉鴨場の付近(下流から) 右岸:越谷市南荻島、左岸:越谷市大林 写真(5)から1Km下流。元荒川橋(国道4号草加バイパス)から 300m下流の左岸に位置するのが、宮内庁の埼玉鴨場。 この付近の左岸も小規模だが元荒川の蛇行が改修されていて、 その跡地を利用している。敷地の外周が1.1Kmにも及ぶ、 この施設は明治41年(1908)に浜離宮(東京都港区)の 代替として竣工した。雅な方々が鴨猟を催すためのものなので、 一般庶民には全然関係ないけどね。しかし、鴨場の上流には 越谷梅林公園があり、こちらは庶民でも利用できる。 なお、越谷市には元荒川の周辺に[元荒川フジバカマの里]の 看板があり、小公園があちこちに設けられている。 絶滅が危惧される植物、フジバカマを守ろうとするものだ。 越谷市民は元荒川と周辺の自然環境に対して関心が高いようだ。 |
(注1)元荒川は末田須賀堰から上流へ1Kmくらいまでは、堰上げ背水の
影響下にあるようで、元荒川の両岸には数基の取水樋管が設置されている。
末田須賀堰の付近は、かつては末田須賀溜井(江戸時代初期に築造)と
呼ばれた貯水池であり、迅速測図(明治10年代の測量地図)によると、
上流側は水の貯留のために、川幅が非常に広くなっていた。
また下流側では、元荒川は2派に分かれて流れていた。なおかつ、
下流側には金剛院を囲い込むように堤防が築かれていた。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡新方須賀村(12巻、p.21)には、
”溜井堤:元荒川分水に沿ひ 村の南方元荒川縁より起り前堤に連続す
長百二十五間 馬踏九尺堤敷五間 修繕費用は民に属す”とあるが、
これが2派を仕切っていた堤防(長さ225m、天端幅2.7m)である。
当時の堤防は民間費用で維持補修していた。なお、元荒川分水とは現在の
須賀用水のこと。分流する流れは末田須賀堰の改修に伴い消滅したが、
末田須賀堰の上流側は現在も川幅が広くなっていて往時を偲ばせる。
なお、江戸時代には末田須賀堰の両岸に、それぞれ末田河岸と須賀河岸があった。
これらの河岸も岩槻藩の年貢米の積み出しに使われた。
(注2)末田須賀堰の上流には5基もの堰(現在は3基)が設けられていて、
それらが水をせき止めてしまい、下流へ水を流さないので、つい最近まで、
末田須賀堰では、かんがい期になると用水不足に悩まされたようである。
末田須賀堰から取水している越ヶ谷町や大沢町の関係者(町村長や助役)が、
上流5堰のゲートを開放してもうらうようにと、行脚した記録も残されている。
(→大正五年 旱魃水貰日記、葛西用水史 資料編下巻、p.1464)
現在は星川に設けられた十六間堰から、末田須賀堰に対して責任放流が
行われている。これは事実上、見沼代用水(星川)から末田須賀溜井への
導水だが、葛西用水(古利根川)から逆川を経由して瓦曽根溜井(元荒川)への
導水とは、状況は若干異なっている。
なお、元荒川で用水の反復利用が行われなくなるのが、末田須賀堰の
下流からである。例えば末田須賀堰から取水した水は、右岸側は綾瀬川、
左岸側は新方川を経由して、それぞれ中川へ排水されていて、
上流部のように再び元荒川へ戻ることはない。
(注3)明治初期まで三野宮橋から岩槻町までの区間には、三野宮橋の
5Km上流に新曲輪橋しか架かっていなかった。三野宮橋は
武蔵国郡村誌の埼玉郡三之宮村(12巻、p.15)に、”岩槻道に属し
村の西方 元荒川の上流に架す 長十六間巾二尺 土造”と記されている。
長さ約29m、巾0.6mの土橋(木造の橋で橋面は土を盛って舗装)であった。
岩槻道については同書に”村の南方 堤上を通す 大道村界より野島村界に至る”とある。
なお、江戸時代には三野宮村、小曾川村、大道村、大竹村、恩間村などは
越谷領ではなく、岩槻領に属していた。不思議なのは小曾川村で、
西隣と東隣の野島村と砂原村は越谷領に属していたのに、
両村に挟まれた小曾川村は、なぜか岩槻領だった。