志戸川 (その2) (その1)
撮影地:埼玉県児玉郡美里町、大里郡岡部町
(1)志戸川改修記念碑と石仏群(左岸から) 美里町関 新大橋(県道75号熊谷児玉線)の下流で左岸へ中堀川が 合流する(小山川から取水した農業用水を排水)。 新大橋の左岸橋詰には、県道の改良工事に伴い、 この地に遷座された石碑や石仏が立ち並ぶ(補足)。 志戸川の改修記念碑によると、改修工事は昭和12年 (1937)から昭和16年にかけて実施されているが、 堤防工事の総延長が約1,200m、橋梁架設が3基、 樋管工事が7基と工事の規模は小さい。 左岸には安永三年(1774)の双体道祖神も祀られている |
(2)関榛橋の付近(下流から) 右岸:美里町関、左岸:岡部町後榛沢 写真(1)から700m下流。この付近は児玉郡美里町と 大里郡岡部町の境界である。志戸川の周辺には 古い火の見櫓が数多く残っている。 写真の地点に架かる関榛橋は古くて狭い橋だが、 周囲の景観と調和した上路トラス橋である。 意外なことに志戸川の水量は渇水期でも豊かだ。 見た目よりも河床勾配は急なのだろう、洗掘を防ぐために、 落差工が設けられている。河床には大きなレキが分布している。 |
(3)和倉橋の付近(上流から) 岡部町後榛沢 写真(2)から900m下流。志戸川は緩やかな蛇行を 適度に繰り返しながら流れている。周辺の地名は 榛沢(はんざわ)だが、これは榛沢氏(中世の武士団 武蔵七党の一支族)に由来するのだろうか。 写真の左上端、上越新幹線の高架橋の付近には 榛沢六郎の供養塔が建てられている。 |
(4)藤治川が合流(下流から) 岡部町榛沢新田 写真(3)から800m下流。岡部町環境センター(ごみ処理場)の 北側では藤治川(一級河川)が志戸川の右岸へ合流する。 志戸川の左岸には公園が造成されているようである。 写真の手前が藤治川。藤治川は美里町用土付近に起点があり、 北東へ流れてくる。なお、この付近はかつて大里郡榛沢村であった。 ここから300m北には、榛沢村の道路元標が今も残っている。 |
(5)支度川橋梁の付近(上流から) 左岸:岡部町榛沢、右岸:岡部町沓掛(くつかけ) 写真(4)から1Km下流。榛沓橋(はんくつ:榛沢と沓掛に 跨る)から撮影。支度川橋梁はJR高崎線の本庄駅と 岡部駅の間に位置する下路RC橋(2スパン)。 橋名は志戸ではなく支度となっている。 JR高崎線(当時は日本鉄道)の開通は、明治初期と 古いので、当時は支度川と表記していたのかもしれない。 この付近では志戸川は複断面となっていて、 低水路にはコンクリート護岸が施されている。 |
(6)志戸川の終点(下流から) 岡部町西田 写真(5)から800m下流。志戸川は小山川の右岸へ合流する。 写真の左が志戸川、右が小山川。中央に見える鉄塔群は 東京電力の新岡部変電所。合流地点の右岸堤防表には [準用河川 志戸川 終点]の標石が残っている。 これは昭和初期の小山川の改修(埼玉県の13河川改修工事)の さいに設けられたものだろう(→当時の標石)。なお右岸堤防の 裏には大正四年稲垣一等卒殉死之場所の碑(大正十年建立)が 建てられている。同様に小山川の滝岡橋の右岸橋詰には 大正十二年建立の殉烈記念碑もある。 |
(補足)石碑の中でひときわ大きいのが、遠藤兵内之碑(昭和57年建立)である。
児玉郡関村の名主 遠藤兵内は伝馬騒動の首謀者として獄門に処され、
志戸川の土手にさらし首になった。伝馬騒動とは明和元年(1764)12月16日、
中山道沿線の農民20万人(上州・野州・信州を加えると30万人とする説もあり)が
増助郷の免除を要求して起こした一揆である。明和の天狗騒動とも呼ばれ、
幕末に頻繁した広域的な規模の[世直し一揆]の先駆けである。
幕府が農民側の要求を無条件で受け入れることで一旦、一揆は沈静化したのだが、
12月から翌年正月にかけて今度は、周辺各地での大規模な打ちこわしへと
発展してしまった。約1ヵ月後に騒動は終結したが、武蔵国だけでも240人近くが
処罰された。なお、助郷とは街道付近の村々に対して課せられた伝馬人夫役のことだが、
中山道の交通量が増大するにつれ、幕府は新たに助郷村を増やす方針をとった。
これが増助郷であり、農民への負担は大きかった。
参考文献:埼玉県史 通史編4、p.634-646、新編埼玉県史 資料編11 近世2、p.5