滝岡橋 (その1) (その2)
所在地:小山川(こやまがわ)、左岸:埼玉県本庄市堀田、右岸:埼玉県大里郡岡部町岡
形式:鋼桁橋(8スパン)、全長158m(歩測)、幅6.0m 竣工:昭和3年(1928)3月→注1
滝岡橋は旧中山道が小山川を渡る地点に架かる橋で、その起源は江戸時代からの
渡し(渡船場)である。明治20年頃までは、両岸の村が協力して渡船を運営してきたが、
維持費用の負担が増すばかりなので、その後、民間人に権利を譲渡したようである。
その頃になると、小山川には渡し(中山道小山川渡船場)のみでなく、平水時(洪水の
心配のない冬から春)には仮設の板橋も設けられていた。→注2
ただし、板橋の架橋地点は中山道から外れていたようなので、現在の滝岡橋の位置とは微妙に違うようだ。
小山川渡船場は有料の渡しだったが、明治32年には経営難を理由に埼玉県の管轄となった。
明治34年(1901)3月に埼玉県が建設した、長さ45間(約82m)、幅4間(約7.3m)の土橋(どばし:木造の橋で
橋面には土を盛った形式)が初代の滝岡橋である。土橋とはいえ、旧中山道(当時は五号国道)に
架かる橋なので、幅員はかなり大きかった。しかし、この付近は身馴川(小山川の旧名)の乱流域であり、
身馴川へは志戸川、女堀川、元小山川、針ヶ谷堀などが合流しているので、昭和初期に河川改修が
なされるまでは河況が安定せず、小山川が増水すると滝岡橋は頻繁に通行止めとなっていたようだ。
なお、滝岡橋の架橋当時、左岸は児玉郡藤田村、右岸は大里郡岡部村だった。
左岸には藤田村の役場、右岸には岡部村の道路元標が今なお残っている。
(追補)滝岡橋は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
←滝岡橋(左岸上流から) 橋名は左岸:本庄市滝瀬の滝と右岸:岡部町岡の岡を 並べたものだという(注2)。初代の木造土橋は現在の橋よりも 下流側に架けられていたのだろうか。 旧中山道には、ここから200m南に筑波見橋(石の桁橋、1899年竣工)、 400m南に穂波橋(石の桁橋、1898年竣工)、 600m南には岡のれんが橋(煉瓦造りのアーチ橋、昭和初期?竣工)と、 バリエーションに富んだ橋が架けられている。 滝岡橋の橋詰と親柱、欄干には石材が豊富に使われている。 デザインも素材である花崗岩の特徴を引き出していて、素晴らしい。 親柱は高さ2.4m、直径1.0mとかなり大きい。かつては橋灯を 備えていたというが、それは道路の照明が目的ではなく、 現代のライトアップに相当するのだろう。親柱には黒大理石製の 銘板も付けられている。橋台の側面は平面ではなく曲面であり、 表面には赤煉瓦が貼り付けられ(内部はコンクリートだと思われる)、 笠石と隅石(コーナー部)には、花崗岩が使われている。 |
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滝岡橋(右岸上流から)→ 周囲の田園風景とマッチした美しい橋である。 欄干の乳白色、桁の朱、橋台の赤、 橋脚のグレーの配色も素晴らしい。 開放感のある橋詰もいい。 300m下流に砂田橋(県道259号線)があるせいか、 滝岡橋の車輌通行量は非常に少ない。 歩行者専用の通路は設けられていないが、 車を気にせずに、ゆっくりと橋を渡れるのが嬉しい。 |
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←河川敷(右岸上流)から見た滝岡橋 朱色の橋桁は夕陽に映える。 遠目には上部工は改修されていて、新しい物に 変わっているように感じたが、滝岡橋の橋桁には、 [昭和ニ年製作、大阪、日本橋梁株式會社]の プレートが設けられている。桁は竣工当初のものだ。 橋台の煉瓦はイギリス積み。質感の良い緻密そうな煉瓦なので、 使われているのは、おそらく地元の日本煉瓦製造の製品だと 思われる。しかし、資材搬入の利便性からすれば、小山川の左岸に あった藤田煉瓦製造(本庄市滝瀬)の製品である可能性も否めない。 煉瓦の平均実測寸法は、214×101×57mmであり、現代の規格とは異なる。 JES(日本標準規格、1925年制定)以降に製造されたものである。 この点は滝岡橋の竣工年と合致する。煉瓦の目地厚は均一であり、 平均目地幅は6〜7mm。施工は丁寧だといえる。 橋脚の先端には赤い鉄板が取り付けてある。 橋脚保護のためだろうか? |
(注1)本庄市歴史年表(本庄市史 通史編III、本庄市史編集室、付録)のp.146に、
昭和3年3月25日の竣工とある。
滝岡橋は埼玉県が実施した小山川の改修事業(大正9年〜昭和3年)に伴い、
架橋されたのだろう。小山川(旧身馴川)は滝岡橋の付近では、数多くの支川が
合流しているので、川幅が急激に広くなる。
滝岡橋の架橋地点は河川改修においても、治水上の重要箇所でもあったと推測される。
(注2)武蔵国郡村誌の榛沢郡滝瀬村(10巻、p.39)に記された小山川橋が滝岡橋の前身である。
”中山道に属す 村の西方 小山川の上流に架す 平水には仮に板橋を架し
満水には流出するを以って臨時渡船を用ゆ 橋長六間巾二間 木製”とある。
橋の長さが六間(約11m)と非常に短いのは、小山川の河道が狭くなっている箇所を
選んで橋を架けたからだろう。おそらく河川敷の中に設置されていたと思われる。
形態は潜水橋あるいは流れ橋だったのだろう。小山川が増水した時には橋の冠水や
流出を容認した仮の橋なので、橋面は舗装されていなかった(土橋ではなく板橋)。
なお、郡村誌の記述は明治9年(1876)の調査を基にしたものである。
小山川橋は榛沢郡同士を結んだ橋であり、滝瀬村と岡村の間に架かっていた。
榛沢郡滝瀬村は明治22年(1889)に、牧西村、傍示堂村などと合併して
児玉郡藤田村となった。一方、榛沢郡岡村は明治22年に岡部村、普済寺村などと
合併して榛沢郡岡部村となった。明治29年には大里郡へ編入され、大里郡岡部村になる。
明治34年に初代の滝岡橋が架けられた時には、小山川の両岸は
藤田村と岡部村となっていたが、橋名は藤岡橋ではない。
旧橋の歴史を引きずった命名がなされた点が興味深い。
なお、武蔵国郡村誌によれば、榛沢郡岡村は往古には藤田庄大寄郷に属し、
砂田村と称していた。天正年間(1573-1591)に岡村へ改めたようだ。