和田川 (その2) (その1

 撮影地:埼玉県熊谷市、大里郡大里町

 武蔵丘陵森林公園の北端
(1)武蔵丘陵森林公園の北端(上流から) 熊谷市楊井
 右岸側には丘陵が迫り、里山の景観を醸し出す。
 この付近は大里郡江南町、比企郡滑川町、熊谷市の
 境界である。東へと流れてきた和田川は流路を若干、
 北東へと変える。中流部までは農業用水路の
 外観だったが、下流部になると自然河川の様相を呈する。
   和田川の河床
  (2)和田川の河床 熊谷市楊井(やぎい)
   写真(1)から400m下流。下流部でも河床には大きなレキが多い。
   水量は少ないが、水質は良好なようで河床が透けて見える。
   和田川の水辺には彼岸花(曼珠沙華)が多く自生している。
   里川を彩る秋の風物詩でもある(曼珠沙華の根には、
   アルカロイド系の毒が含まれているらしいけどね)。

 岸辺の石神
(3)岸辺の石神(上流から) 熊谷市楊井
 写真(2)から200m下流。カヤの大木の陰には、ひっそりと
 3体の石神が祀られている。左から弁財天、大黒天、
 多聞天。多聞天とは毘沙門天のこと。なお、写真(2)の
 付近には、宝暦十年(1760)十一月
 和田村中と記された
 
念仏供養塔が祀られている。写真(4)の付近の道祖神にも
 和田村と刻まれている。この辺りは江戸時代には
 大里郡和田村だった。和田村が和田川の名前の由来と
 なった。和田川の左岸には白髭神社が祀られているが、
 近隣では白髭神社は珍しい存在だ(注)

   
楊井大橋の付近
  (4)楊井大橋の付近(上流から) 熊谷市楊井
   写真(3)から300m下流。楊井大橋は武蔵丘陵森林公園の
   北入口道路に架かる比較的新しい橋(1989年竣工)。
   楊井大橋の下流にある和田橋(国道407号線)の左岸橋詰には、
   
旧和田橋の供養塔(昭和二年建立)が設けられている。
   供養塔が建立された頃、この付近は大里郡吉岡村だった。
   熊谷市との合併で吉岡村は昭和30年に消滅したが、
   大正時代に設置された
吉岡村の道路元標は今も残っている。
   和田川の流域の地形は、国道407号線を越えると、
   これまでの丘陵から低地へと変貌する。

 和田川の最下流部
(5)和田川の最下流部(下流から)
 左岸:大里町下恩田、右岸:東松山市岡
 写真(4)から400m下流。国道407号線の東側の付近。
 和田吉野川には、昔ながらの練石積みの護岸が
 残されている。下流部でも川幅(堤防天端の内法幅)は
 約12mと狭い。河床の洗掘を防ぐためだろうか、
 落差工も設けられている。周囲には民家は少なく、
 和田川には雨水と農業排水が集められる。

   
和田川の終点
  (6)和田川の終点(右岸から) 大里町下恩田
   写真(5)から200m下流。和田川は
和田吉野川の右岸へ合流する。
   手前が和田川、奥が和田吉野川。合流付近には水門(逆流防止)や
   護岸は設けられていない。河床の土質分布はレキ6割、
   砂4割であろうか。粘土は分布していないようだ。
   太古には、和田川と吉野川が合流して和田吉野川となったようだが、
   現在の
吉野川(逆川)は和田川の西側を流れ、
   大里郡川本町本田で荒川へ合流している。   

(注)楊井(やぎい)という判読困難な地名は、古代大里郡を4つの郷の内の1つ、
 楊井郷、あるいは中世の武士団である楊井氏に由来するという。
 楊井氏は武蔵七党の一つである、私市党(きさい)に属した。
 楊井は古い地名であるが、いつのまにか消滅してしまったようで、
 現在の楊井の起源は、大里郡楊井村である。楊井村は和田村と原新田が
 合併して明治9年(1876)に誕生した。ちなみに楊井に鎮座する白髭神社は
 渡来人(高句麗、百済、新羅など)の信仰が厚かった神社である。


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