和田川 (その1) (その2

 撮影地:埼玉県大里郡江南町(こうなん)、比企郡滑川町(なめがわ)

 和田川は延長9Km、流域面積 12.6Km2の荒川水系の一級河川。
 源流(最上流)は比企郡嵐山町古里の農業用溜池であり(一級河川 滑川の源流に近い)、
 直接的な山地水源は持たない。もっとも溜池自体の水源は丘陵地帯に降った雨や湧水である。
 和田川の河川管理上の起点は、江南町板井に設置されている。
 管理起点からは
比企丘陵の狭間を農業排水を集めながら東へと流れ、大里郡江南町、
 比企郡滑川町、熊谷市、東松山市を経由し、大里町下恩田で和田吉野川の右岸へ合流する。
 丘陵と台地の間を流れる河川だが、流路の形態は扇状地河川というよりも山地河川に近い。

 和田川流域の丘陵部には数多くの溜池設けられていて、それらからの水は
 田んぼで使われた後に、悪水(農業排水)として和田川へ流れ込んでいる。
 その悪水を再び農業用水として再利用するために、和田川には数箇所に取水堰が設けられている。
 和田川から取水した用水の排水先は和田川であり、和田川の水も反復利用されている。
 なお、新編武蔵風土記稿の大里郡之一(11巻、p.84)によれば、和田川という名称は
 最下流部付近の大里郡和田村(現在の熊谷市楊井)に由来するとのこと。
 和田村は古文書に男衾郡和田郷と記された例が多いともある。

 和田川の源流の一つ
(1)和田川の源流の一つ 大里郡江南町板井
 
八雲橋の付近。出雲乃伊波比神社(いずものいわい)は
 延喜式内社(延喜式神名帳に記載された古社)である。
 伊波比神社は武蔵国造
 物部氏(古代出雲族の末裔と
 される)と関係が深い(注1)。和田川の南側(写真右)の
 丘陵には塩古墳群(約100基)が存在することから、この
 付近では4世紀頃から集落が成立していたことになる。
 和田川の上流部は生態系の保全、景観との一体化、
 川の親水性などを配慮した環境整備が施されている。
 地元の板井地区の人々が計画を立案し、完成させた。
 カワセミが飛び廻り、アオサギが憩う豊かな自然環境が
 保全されている。和田川には練石積みの親水護岸が
 施され、管理道路はふるさと歩道と名付けられている。
   管理起点の付近
  (2)管理起点の付近(上流から) 大里郡江南町板井
   写真(1)から600m下流。県道11号熊谷小川線の南小原交差点の
   南東に和田川の一級河川の管理起点が設けられている(注2)
   下流に見えるのは、第一舟川堰(農業用水)と埼玉県企業局の
   江南中継ポンプ場(上水)。周囲の地形は丘陵だが、谷地(侵食谷)が
   発達しているので、それを利用したかんがい用の溜池が丘陵部には
   数多く分布している。和田川周辺の平坦地(標高50m程度)には
   水田が広がっている。和田川が形成した沖積地は古代から、
   水田として開発されてきた。人々が生産活動を営んできた証しである。
   管理起点の左岸下流には松林が広がり、岸辺には弘化三年(1846)
   建立の
地蔵菩薩(道標兼)が祀られ、夜泣き地蔵と呼ばれている。
   その付近は小江川の通殿という。→
 通殿について
   和田川の河畔には馬頭観音や庚申塔などが非常に多く分布している。

 杵屋敷橋の付近
(3)杵屋敷橋の付近(上流から)
 左岸:江南町須賀広、右岸:江南町小江川(おえがわ)
 写真(2)から1.2Km下流。左岸側は江南台地の縁であり、
 台地の南側の平坦地には一面に水田が広がる。
 これらは大沼(ため池)(注3)から用水が供給されている。
 右岸側は丘陵であり、裾の部分に和田川が流れている。
 和田川には落差工が数多く設置されている。
 見た目よりも河床勾配は、急なのかもしれない。
 右岸には畑地や民家が点在していて、和田川の川幅は
 約7mと狭いので、自家製と思われる
小さな木の橋
 幾つも架けられている。現在は1基も残っていないが、
 明治初期の時点で、和田川には記録に残るだけでも
 7基の石橋が架けられていた(注4)

   
和田川笠堰の付近
  (4)和田川笠堰の付近(上流から)
   左岸:大里郡江南町野原、右岸:比企郡滑川町土塩
   (3)から1.1Km下流。高根橋(和田川笠堰の上流600mにある)の
   付近から、和田川は大里郡(明治29年までは男衾郡)と
   比企郡の郡界を規定する河川となる。現在は和田川の
   中流部は農業用水路として整備されているが、急傾斜の
   コンクリート護岸のために、見た目は自然河川にはほど遠い。
   1Kmにも満たない間隔で取水堰が設けられている。
   写真の和田川笠堰は境橋の下流に設けられた農業用水の
   取水堰(ゲート4門)。昭和44年に和田川土地改良区が
   建設した。付近に架かる一連の橋梁も土地改良事業の
   一貫として、団体営で建設されたようである。

 八幡神社の石仏群
(5)八幡神社の石仏群 江南町野原
 写真(4)から200m下流。和田川の左岸に鎮座するのが、
 八幡神社。この付近には八幡神社(祭神は誉田別命)が
 多い。神社の裏手には「踊る埴輪」が出土した、
 野原古墳群(現存数約20基)がある。神社の南端、
 和田川に面した道路脇には庚申塔(文字、像)や
 猿田彦など10体の石仏が祀られている。比較的新しく、
 年代的には、どれも江戸時代後期の造立である。
 右岸の滑川町福田には天神山横穴墓がある。

   
熊谷東松山有料道路の付近
  (6)熊谷東松山有料道路の付近(上流から)
   左岸:大里郡江南町野原、右岸:比企郡滑川町土塩
   写真(5)から1.4Km下流。和田川に沿って水田が広がる。
   左岸の江南町野原は平坦な(起伏の変化が少ない)台地であり、
   右岸の滑川町土塩は丘陵である(注5)。写真奥に見えるのは、
   武蔵丘陵森林公園の北端部(滑川町、熊谷市、東松山市に跨る)。
   なお左岸の文殊寺(江南町野原)には、
芭蕉の句碑と芭蕉塚
   建てられている。右岸の滑川町土塩の薬王寺地区には、
   淡洲神社が鎮座する。滑川町から嵐山町にかけて分布する神社だ。

(注1)出雲乃伊波比神社は大里郡寄居町赤浜(荒川の右岸)、
 比企郡吉見町黒岩(
横見川の右岸)、
 入間郡毛呂山町岩井(毛呂川の右岸)にも祀られている。
 表記は異なるが、入間市宮寺(東京都との境)にも
 出雲祝神社がある。いずれも丘陵の裾に鎮座している。

 新編 武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の板井村には
 氷川神社と鹿島社の2社の鎮守があり、同書では氷川神社の方を式内社の
 出雲乃伊波比神社らしいとしている。しかし現在、氷川神社は伊波比神社に
 境内社として合祀されている。現地の案内板には”伊波比神社は鹿島神社と
 いわれていた”と記されているが、これはこの付近の小字が鹿島だからだろう。
 もっとも小字は神社の存在から後に付けられたと、考えた方が自然なので、
 伊波比神社は元来、鹿島系の神社なのかもしれない。
 伊波比神社の祭神は鹿島社と同じ、武甕槌命(たけみかつち)である。

 なお、伊波比神社から南東へ1.6Km、小江川地区の高根神社の祭神は
 伊邪那岐、伊邪那美と味鋤高彦根である。この神社も出雲系といえよう。
 高根神社には境内社として星宮神も祀られている。これは妙見信仰に関係があるのだろう。
 さらに、伊波比神社から500m東の付近、和田川の左岸側には
 金山という小字がある。これは製鉄のカスの廃棄場所を表すことから、
 古い時代にはこの付近で、金属の精錬が行われていた可能性が高い。
 金山から北へ1Km、川本町本田の小字に百済木があるのも興味深い。

(注2)和田川の一級河川の管理起点は、写真(2)の地点に設けられているが
 そこから約1.2Km上流には、準用河川の管理起点が設置されている。
 江南町板井と嵐山町古里の境界である。標石は高さ60cm、一辺25cmの角柱で
 [準用河川和田川小原村起点]と刻まれている。
 小原村という表記なので昭和30年以前に設置されたものである。

(注3)大沼は外周が700mにも及ぶ大きな溜池で、周辺は大沼公園として
 整備されている。周囲のアカマツ林は県の自然環境保全地域に指定されている。
 大沼からの用水が供給される先には微高地があり、そこには重殿稲荷が
 祀られている。この近辺では重殿神社の存在は珍しい。
 大沼の中央には、弁財天(水の神様)を祀った弁天島が設けられているが、
 そこにある板碑(青石塔婆)には、嘉禄三年(1227)の銘があり、
 日本最古とされている。これは埼玉県指定文化財だが、現地に
 展示されているのはレプリカ。[埼玉県板石塔婆調査報告書、1981]によれば、
 江南町には全国最古、二番目、三番目の板石塔婆が存在しているという。
 このような分布状況から考えれば、江南町は板石塔婆の発祥の地と云っても
 過言ではないだろう。ただし、江南町は当時の主要街道(鎌倉街道)からは
 外れた所に位置する。なぜ江南町の周辺が、板碑の発祥地だったのか疑問である。

 埼玉県には板碑が数多く分布し、全国にある4万基の板碑の半分の2万基が
 埼玉県に集中して存在するといわれている。そのため特徴のあるものが多く、
 寄居町赤浜には日本最新の元和九年(1623)のもの、
 長瀞町野上下郷には日本最大の規模のもの(地上高5.4m、国の重要文化財)がある。
 板碑の石材である緑泥片岩は、小川町下里、長瀞町野上下郷から多く産出する。
 石材は荒川水系の河川を利用して、埼玉県内の各地へ搬送されたと思われる。

(注4)下表は武蔵国郡村誌の第9巻から集計したもの。武蔵国郡村誌は明治9年の調査を基に編纂された。

町村 橋名 説明 ページ
塩村 通殿橋 小川道に属す 村の東方 和田川の下流に架す 長一間巾九尺 175
板井村 下田橋 村道に属す 村の東南 和田川の下流に架す 長一間二尺巾三尺五寸 181
小江川村 北田橋 村道に属す 村の西北 和田川の上流に架す 長二間巾七尺 186
盆前橋 熊谷道に属す 村の西方 和田川の中程に架す 長二間巾七尺
野原村 丸山橋 村道に属す 村の巽の方 和田川の中程に架す 長三間巾九尺 193
持の橋 熊谷道に属す 村の南方 和田川の下流に架す 長四間巾九尺
楊井村 和田橋 松山道に属す 村の南方一町四十間 和田川の下流に架す 長五間巾四尺 121

 なお、江南町板井の和田川左岸(県道11号の南)には、文久四年(1864)に
 塩村によって建立された
石橋供養塔が残っている。
 場所は板井、塩、小江川との境界である。
 この石橋供養塔には、三十ヶ所石橋供養塔と銘がある。

(注5)滑川町土塩の丘陵部には数多くの溜池が設けられていて、それらからの水は
 田んぼを潤した後、和田川へ排水されている。土塩の明照寺には宝暦五年(1755)銘の
 
弁才天が祀られているが、これは溜池の安全と取水の安定を祈願したものだろうか。
 昭和30年(1955)まで和田川の左岸は大里郡小原村、右岸は比企郡福田村だった。
 両村は合併によって消滅してしまったが、大正時代末期に設置された
福田村の道路元標
 現在も残っている。なお、小原村は明治22年(1889)に男衾郡(おぶすま)小原村として誕生した。
 男衾郡小江川村、野原村、須賀広村、千代村、柴村、板井村、塩村が合併したものだ。
 男衾郡は明治29年(1896)に大里郡へ編入された。男衾郡の郡域は面積的には狭かったが、
 範囲は広く、荒川の右岸に沿って、現在の寄居町、小川町、江南町、川本町にまたがり、
 それぞれの町の一部分に相当している。寄居町と合併して消滅してしまったが、
 昭和30年までは男衾郡の郡名を冠した
大里郡男衾村が存在した。
 男衾村は明治22年から明治29年まで男衾郡男衾村だった。


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