八間堰、十六間堰 (はちけんせき、じゅうろくけんせき)

 撮影地:南埼玉郡菖蒲町上大崎、菖蒲  - 八間堰の周辺風景 -

 両方の堰とも、1728年に井沢弥惣兵衛によって作られたのが起源である。
 名称は堰の幅が、それぞれ八間(約14.4m)、十六間(約28.8m)だったことに由来する。
 つまり、1間幅(1.8m)の堰板(ゲート)が八間堰には8枚、十六間には16枚設けられていた。
 堰全体が木で作られていて、堰本体は木製の枠組(堰枠、関枠と記すこともある)であり、
 堰板は木の板だった。堰板の形式は
角落しと呼ばれるもので、数枚の角落し板を
 手作業で抜いたり差し込んだりして、見沼代用水の水位の調節を行なった。
 なお、両方の堰とも、水圧による堰本体の浮上を防ぐために、堰の上には重土橋
(おもりどばし)
 呼ばれる形式の
土橋(木製の橋で通路は土を盛って舗装)が架けられていた(注)
 その後、八間堰と十六間堰は十数回の修復・改築を経て、水資源開発公団が実施した、
 埼玉合口二期事業(1978〜1994年)によって、現在の形式に造り替えられた。

 両堰の役割は、以下のとうり。
  (1) 用水が必要な時には、八間堰を開けて十六間堰を閉じ、見沼代用水に送水する。

  (2) 用水が不要な時や洪水時には、八間堰を閉じ十六間堰を開けて、下星川に放流する。
 つまり流量調節のための施設だが、八間堰は取水用、八間堰は排水用である。
 見沼代用水は十六間堰の上流までは、星川の河道を用水路として利用しているが、
 洪水などのさいには、両堰に対して(2)の操作をおこなうことで星川は排水路に変わるのである。
 しかし、洪水時に利根川の元圦を閉鎖しても、この地点には
上星川下忍川を経由して、
 洪水流が流下してくるので、両堰の管理は利水だけでなく治水上も重要だった。
 十六間堰の操作は、見沼代用水の水量の数倍以上もの洪水流を相手にするので、困難を極めた。

 なお、非かんがい期(田んぼに水を必要としない時期)には、見沼代用水路は見沼通船
 使われたので、通船に支障がないように、八間堰を開けて一定量の通水が行われた。
 現在は両堰のゲート開閉はコンピュータによる遠隔操作で行なわれているが、
 つい最近までは堰の管理や操作のために看守人や番人がおかれていた。

 十六間堰と八間堰  ←十六間堰と八間堰(上流から)

  写真の左が十六間堰、右端が八間堰。
  十六間堰は星川に、八間堰は見沼代用水路に
  設けられている。八間堰の側の水路が
  享保年間に開削された見沼代用水路。
  渇水時にも通水できるように、八間堰の方が敷高は低い。
  古い写真によれば、十六間堰と八間堰の間(写真の
  中央部)は溜池のような形態(沈砂池を兼ねていたと
  思われる)だったが、現在は小公園となっていて、
  
星川弁天(見沼弁財天)が祀られている。
  見沼代用水路が星川の河道を利用している区間は、
  十六間堰で終了する。十六間堰から下流は
  下星川と呼ばれ、完全な排水河川である。
                 八間堰(上流から撮影)→
      八間堰の脇には見崎橋が架けられている。
      鋼製ローラーゲート:幅3.55×高さ2.40m、2門
      現在の規模では、五間堰(約8m)である(^^;)
      ゲート1門の重量は2.4tもあるが、毎分0.15mの
      速度で開閉可能だ。

      見沼代用水の開削当初は木製だった八間堰も、
      大正3年(1914)には煉瓦造りの堰に改修され、
      八間堰閘という名前になった。その名のとうり、
      1間幅のゲートを8門持ち、当時としては
      非常に巨大な堰であり、装飾には花崗岩が
      豊富に使われていた。左岸の小公園には
      八間堰閘の
竣工記念碑がある。
      なお、埼玉県立文書館には煉瓦堰の設計図が
      保管されている(埼玉県行政文書
 大430-1)
八間堰
 十六間堰  ←十六間堰(星川の下流から撮影)
  鋼製ローラーゲート
  制水用:幅13.9×高さ2.6m、重量15.8t、2門
  調節用:幅1.8×高さ2.6m、重量2.6t、1門
  写真、右隅が調節用ゲート。両形式共に開閉速度は0.3m/分

  意外なことに十六間堰は、昭和29年(1954)まで木製であった。
  十六間堰の直下流に架けられた橋の名は弁天橋。
  見沼弁財天に由来するのだろうか。
  星川は、この地点から5km下流の蓮田市根金で、
  元荒川に合流する。元荒川は農業用水路としても
  使われているので、十六間堰の放流量には、
  元荒川の下流で取水している
末田須賀堰への
  責任放流量が含まれている。現在の十六間堰には
  用水放流施設としての役割も付加されている。

(注)八間堰と十六間堰は明治時代初期の時点でも、建設当初の古典的な形式だったようで、
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡上大崎村(12巻、p.244)には、
 重土橋と記されている。例えば、八間堰は
 ”八間堰枠重土橋:村道に属し村の北方
 用水の上流に架す 長九間巾二間一尺 土造”とある。


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