見沼代用水 〜 東縁点描
↑高台橋の付近(下流から) さいたま市東宮下 北西50mには県道64号の東宮下交差点がある。 東縁の東側に並走する街道は、旧日光御成道である。 西縁と東縁の路線は台地に開削したものなので、 高台橋という名の橋が多い。西縁が県道5号線を 横断する地点(東大宮四丁目)の橋も高台橋である。 また、西縁から分水する鴻沼用水路にも明治期建造の 高台橋(旧中山道を横断、煉瓦造りのアーチ橋)がある。 |
↑見沼弁財天(上流から) 左岸:さいたま市膝子、右岸:加田屋一丁目 高台橋から1.4Km下流。北側(写真左方向)の県道105号線脇には 日光御成道の膝子の一里塚がある。写真右端の弁財天(水の神様)は 見沼土地改良区が建造したもので、それほど古いものではない。 なお、ここから800m上流の膝子橋の右岸には、大正7年建立の 字八石 樋管懸樋改築記念碑がある。東縁水路に 設けられていた取水施設の竣工記念碑である。 |
↑加田屋弁天社 加田屋一丁目 見沼弁財天から400m下流、丼橋の右岸に設けられている。 祠の脇の石碑には享保16年(1731)7月建立、 明治29年(1896)再建と記されている。 見沼代用水の開削から4年後に建立されたものだ。 通水と通船の安全を祈願したものだろう。 |
↑締切橋の付近(上流から) 左岸:さいたま市上野田、右岸:加田屋二丁目 東縁と見沼たんぼでは標高差が、かなりあるのが実感できる。 右岸(西側)150mには見沼たんぼの排水路である加田屋川(注)が 流れている。加田屋分水路(東縁から分水した用水路)は、加田屋川の 上を水路橋で横断している。その地点には、明治28年(1895)に 建造された〆切掛渡井(煉瓦造りの水路橋)の遺構が残っている。→補足 |
↑五斗蒔橋の付近(上流から) 左岸:さいたま市上野田、右岸:南部辻領 野田小学校の南側に架かるのが、五斗蒔橋(ごとまき)。 下流左岸の橋詰めには天保11年(1840)に辻村の人々が 建てた供養塔が残っている。 この付近は昭和31年(1956)に美園村へ合併するまで 北足立郡野田村だった。 八幡宮の境内には野田村の道路元標が今も残っている。 |
(注)加田屋川の流路は、旧大宮市と旧浦和市の境界付近
(片柳一丁目〜見沼)までは、東縁の右岸側に隣接している。
一方、西縁の左岸側に隣接して流れるのが芝川である。
加田屋川は旧浦和市見沼で芝川の左岸へ合流する。
(補足)加田屋分水路の脇の県道214号線は、江戸時代初期に
築かれた堤防の跡を道路へ改修したものである。
延宝3年(1675)には、見沼溜井の一部を堤防で締め切って、
溜井の水を綾瀬川に排水し、入江新田52haが開発された。
その時に築かれた締め切り堤防が、現在の県道の前身である。
見沼代用水が開削される50年以上も前のことである。
締切橋や〆切掛渡井という名称は、この締切堤防に由来する。
なお、加田屋とは入江新田を開発した板東家の屋号である。
板東家は紀州加田村(現在は和歌山市)の出身。
その後、綾瀬川下流の村々が水害が増大したと訴えたことや、
入江新田下流の村々が溜井の用水量の不足を訴えたことから、
入江新田は再び、溜井へ戻されてしまった。