〆切掛渡井 (しめきり かけとい)
所在地:さいたま市加田屋二丁目、見沼代用水の支線、加田屋川を横断 建設年:1895年
〆切掛渡井とは、加田屋分水路(見沼代用水東縁の締切橋の上流右岸から分水)が
加田屋落(現.加田屋川)と交差する地点に架けられていた煉瓦造りの掛樋。
掛樋(かけひ、かけとい)とは、水路橋のことであるが、〆切掛渡井のように掛樋を掛渡井と表記することもある。
掛渡井(かけとい)は、井(水路のこと)に掛けて渡すという意味であり、形態をうまく表現している。
〆切掛渡井は、北足立郡片柳村と三室村の村長が連名で建設申請をし、県税の補助(町村土木補助費)と
埼玉県の技術指導を得て、明治28年に北足立郡片柳村大字加田屋に建設した。
建設主体は加田屋分用水路水利土功会だと思われる。
同会は明治20年に結成されたもので、かんがい区域は加田屋新田、片柳村、山村、
西山村新田、東新井村、三室村であった。〆切掛渡井の総工費は約1,119円(内訳は529円が
地方税補助金、590円が村費、補助金率は47%)であり、工事は明治28年(1895)1月25日に起工し、
同年4月20日に竣工したようである(埼玉県行政文書 明1806-5)。
〆切掛渡井は、筆者の知る限り、埼玉県で最初に建設された煉瓦造りの掛樋である。
後年(1908年)に建設された瓦葺掛樋(見沼代用水が綾瀬川を横断)が煉瓦橋台、煉瓦橋脚の上に
鉄製の樋(水路)を置いた形式の水路橋なのに対して、〆切掛渡井はほぼ全てが煉瓦造りであった。
構造的に無理やり分類すれば、瓦葺掛樋が桁橋であるのに対して、〆切掛渡井はラーメン橋と
いうことになる。使われた煉瓦は30,300個(表積:横黒・鼻黒焼
2,450個、裏積:普通一等焼 24,500個、
水路部:撰一等焼過
3,350個)である。基礎の工法は当時一般的だった土台木である。
これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や
栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを打設した方式である。
地杭(基礎杭)には松丸太(長さ3間:5.4m、直径6寸:15cm)が84本使われていた。
水路部は長さが8間(14.4m)、通水断面の幅が3尺(0.9m)、深さが2尺7寸4分(0.82m)、
焼過煉瓦(含水率が低く、防水性が高いとされた)が使われたのは漏水を防ぐためであろう。
掛樋の下部工は横黒・鼻黒を配した煉瓦造りのアーチ橋(1連)であったようだ。
設計仕様書には、橋台は長さ5尺2寸(1.6m)、内法幅15尺(4.5m)、高さ13尺(3.9m)と記されている。
形態的には甚左衛門堰枠(草加市、伝右川、1894年)と良く似たものだったと想像できる。
なお、仕様書には溢水排水樋(土管製)の記述があるので、左岸側には余水吐が設けられていて、
増水時には通水しきれない水を加田屋落へ排水する仕組みだったと思われる。
〆切掛渡井は1956年にコンクリートで全面的に改築され、現在は加田屋分水路掛樋と名を変えている。
加田屋分水路掛樋の周辺には、旧掛樋に使われていた煉瓦が数多く散乱している。
埼玉県の煉瓦樋門は明治29年頃から表積の建材が黒っぽい色の煉瓦から赤煉瓦へ
完全に移行したのだが、旧掛樋の跡には表積の鼻黒煉瓦と裏積の赤煉瓦が残っている。
これらの煉瓦は埼玉県の煉瓦樋門建造史において、使用煉瓦の変遷過程を裏付ける貴重な史料である。
←加田屋分水路掛樋(上流から) 現在の施設名は加田屋分水路掛樋である。 橋台には銘板が残っていて、それによると昭和31年3月竣工、 工事は行田市の小川工業が担当している。 掛樋の通水断面は箱型で幅が1.2m、深さが0.85mである。 加田屋川の河床には旧掛樋の煉瓦が大量に散乱している。 写真左の道路は県道214号線、かつての越谷新道である。 さらに昔へ遡れば、この道路は元来は締切堤防であり、 延宝年間(1680年頃)に現在の加田屋川流域を 新田開発するために築かれたものである(入江新田)。 加田屋川はその時に沼落として開削されたのだろう。 見沼代用水が開削される50年も前のことである。 なお、加田屋川はここから2Km下流で 芝川(見沼代用水の排水路)へ合流する。 |
↑散乱する赤煉瓦 これらは橋台の裏積に使われていたものだろう。 煉瓦の平均実測寸法は228×108×58mm。 平の面には機械成形の跡が確認できる。 なお、上敷免製らしき楕円形の刻印も見られる。 |
↑鼻黒の異形煉瓦 下部工のアーチ部に使われていたものであろう。 くさび形(上小口56mm、下小口49mm)の異形煉瓦で、 小口面は焼過である。この煉瓦には機械抜きの跡はない。 手抜きで成形されたものである。 |