分量樋

 所在地:大里郡大里町小八林(こやつばやし)、横見川  建設:1913年

長さ 翼壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
6.9 2.7 箱1.8 なし  

 設置場所の特異性:
 分量樋は、横見川(横見第二用水)の起点に設けられた石造りの河川構造物で、農業用水を送水している。
 荒川に架かる大芦橋の右岸橋詰に位置する。大芦橋の右岸側アプローチは横手堤と呼ばれる、
 旧堤防の上に設けられている。大芦橋の右岸は大里郡大里町だが、横手堤だけは比企郡吉見町の
 飛び地である。横手堤は荒川や和田吉野川の洪水から、吉見町を守るために江戸時代に設けられた控堤。
 横見川の水源は大里町の和田吉野川と通殿川であり、横見堰から取水して吉見領の用水となり、
 横手堤を横手圦(樋管)で横断して流れ、分量樋で分水され吉見町の旧19村の水田をかんがいする。
 現在では吉見町の農業用水は、大里用水(荒川の六堰頭首工で取水)からの補給があるので
 安定しているが、昭和初期までは上流側の大里町の悪水(かんがい排水)に依存した不安定なものだった。
 洪水時には横見川は、上流側である大里町の洪水吐としても機能する。
 一方、下流側の吉見町では上流からの洪水の流入は避けたいが、農業用水は欲しい。
 横見川の水利形態は、このような上下流の利害が絶妙にバランスして成立したものである。
 これと良く似た形態は、北河原用水元圦(中条堤、妻沼町と行田市)でも見られる。

 公平を期した分水施設:
 分量樋という名称は施設の固有名ではなく、形式を示した普通名詞だと思われる。
 分量樋とは現代の分水工に相当する。横手堤を横断してきた水路は分量樋の10m上流で、
 2つに分かれる。分量樋の側が横見川(横見第二用水路)で、上郷と呼ばれる吉見領旧19村を
 かんがいする。もう一方は横見第一用水路(最下流は文覚排水路)で、下郷の5村をかんがいする。
 横見第一用水路の始点にも、分量樋と対をなす石造りの施設が設けられていて(形式は射流分水工)、
 定量分水を可能にしている。この分水方式は農業用水の公平な配分のために、元禄16年(1703)に
 上郷と下郷の同意のもとで決められたもので、当時から現在まで実に300年以上も守られている。
 なお、分量樋の寸法・形式も当時の文書(→文献39、p.212)に記された、
 ”内法幅六尺ニ定メ、甲蓋ナシ箱樋ヲ伏セ”とほとんど同じである。

 横見郡の用排水施設:
 横見第一・第二用水路の流末は悪水路となって、最終的には市野川へ合流する。
 それぞれの落ち口には煉瓦造りの逆流防止水門:文覚門樋(吉見町飯島新田、1893年、一部残存)と
 江綱門樋(吉見町江綱、1894年、現存せず)が設けられていた。現在はそれらの代替施設として、
 吉見排水機場(吉見樋管)と横見排水機場(渡戸樋管)が建設されている。
 なお、以前は吉見領の用水は和田吉野川に設けられた横見堰(大里町玉作、1900年、煉瓦造りの堰)から
 取水していた。横見堰の上流には大里町の農業用水を取水するための至和堰(大里町相上、1892年、
 石造りの堰)が設けられ、和田吉野川右岸の至和圦(1896年、煉瓦造りの樋門)が元圦であった。
 また、大里町小八林には、逆圦樋管という名の煉瓦造りの樋管が明治32年(1899)に
 建設された記録も残っている→文献1。これは使用煉瓦数が90,000個と、かなり大規模な施設なので、
 横手堤によって流れが阻害される大里町の洪水を、荒川の右岸へ排水していた樋管であろう。
 設置場所は大芦橋の上流側、現在、豊廼樋管がある辺りだと推定される。

 分量樋(上流から)
 ↑分量樋(上流から)
 状態は非常に良く、建設当時の原形をほぼ留めていると
 思われる。ゲートが付けられていた形跡はない。
 使われている石材は、安山岩系のものである。
   分量樋(下流から)
  ↑分量樋(下流から)
   写真上部は荒川の右岸堤防、水防倉庫(白い建物)の脇を
   横見第一用水路(五ケ村用水)が流れる。
   横見第一用水路の方が第ニ用水路よりも高台を流れている。

 分量樋(横から)
 ↑分量樋(横から)
 天端には石材が据え付けられ、橋を兼用した構造に
 なっている。
石材の側面には上流側に施設名、
 下流側に竣工年が刻まれている。

   側壁
  ↑側壁(上流から)
   壁を構成する石材の大きさは、90
×29×29cm。面取り加工が
   施された緻密な石組みである。分量樋の設けられた小八林地区は
   昔から石工が多いことで知られている。

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