横見堰 (その1)(その2

 所在地:大里郡大里町玉作、和田吉野川  建設:1900年

 横見堰は和田吉野川の終端付近、大里郡大里町玉作に設けられていた煉瓦造りの堰である。
 吉見領24ケ村(現.吉見町、下吉見領)の農業用水を取水するための堰だが、現在はコンクリートで
 全面的に改築されている。横見堰が設けられていた大里町玉作(上吉見領に属した)は
 荒川の右岸に位置し、村の東端では和田吉野川が荒川へ合流し、かつ北から流れてくる通殿川
 和田吉野川へ合流していた。村全体の標高が低く地形的にも盆状であるために、水が滞留しやすく、
 荒川が増水すると和田吉野川や通殿川は荒川へ排水不能となるばかりでなく、
 荒川から洪水流が逆流してくる水害常襲地であった。
 そのため、上吉見領の主な治水施設は横見堰を煉瓦造りへ改良する前に、既に堅牢な
 形式(木造から煉瓦造りへ)へと改築されていた。例えば、玉作門樋(和田吉野川、1888年)、
 津田合併門樋(荒川、1891年)、向谷樋管(通殿川、1898年)などである。
 これらは埼玉県の煉瓦造水門としては、創成期の部類に属し、先進的な構造物であった。

 横見堰は和田吉野川に設けられていたが、同川の上流側には上岡堰(真栄堰、東松山市岡)と
 至和堰(大里町相上)の2基の取水堰(共に石造りであった)が設置されていて、
 和田吉野川の水を取り尽くしてしまうので、横見堰の地点では充分な水量は望めなかった。
 下吉見領の農業用水は実質的には通殿川(至和堰よりも下流で、和田吉野川へ合流する)の
 水量に依存していた。ただし、通殿川は上吉見領(現.大里町)の主要な悪水落であるので、
 排水をめぐって上流の上吉見領と下流の下吉見領の間では、利害が対立したことが予想される。
 横見堰は水防重点地域に、しかも重要な治水施設に隣接して設けられた利水施設なので、
 その水管理は想像以上に困難だったことだろう。

 横見堰は老朽化した木造の旧堰(注)を、近代的な煉瓦造りへと改良したもので、
 横見用水水利土功会(比企郡北吉見村外三ヶ村の組合。管理者は南吉見村長)が、県税の補助
 埼玉県の技術指導を得て、明治33年(1900)6月に大里郡吉見村大字玉作に建設した。
 横見堰の使用煉瓦数は47,700個(全て選一等焼過煉瓦、埼玉県行政文書 明2482-6)、
 ゲートが3門(木製、内法幅5尺:1.5m、高さ6尺5寸:1.95m)、石材は相州堅石であった。
 煉瓦の数だけで比較すれば、現存最大の煉瓦堰である古笊田堰(備前堀川、久喜市、1909年)と
 ほぼ同じ規模の施設である。

 紛らわしいのだが、横見堰を建設した北吉見村や南吉見村は比企郡(現.吉見町。旧.横見郡が
 明治29年(1896)に比企郡へ編入)であり、建設地の吉見村は大里郡(現.大里町相上、冑山、箕輪、
 玉作、津田、向谷、小八林)である。今でもこの悩ましい名称は、歴史のある施設には残されている。
 例えば荒川に設けられている六堰頭首工(農業用水の取水堰)から右岸へ分水している吉見用水の
 吉見は大里郡吉見村を指している。六堰用水の正式な名称は大里用水である。
 また荒川水管橋の上流、和田吉野川に架けられた橋の名前は吉見橋(大里町小八林)である。
 なお、大正期に建立された大里郡吉見村の道路元標が、大里町相上(あいあげ)に今も残っている。

 旧堰の遺構
↑旧堰の遺構(和田吉野川の右岸から)
 右岸堤防の裾に横見堰の遺構が残っている。
 手前の石材(30×23.5×212cm、12本残存)は
 堰の渡石(管理橋)だったと思われる。
 側面には
堰名と竣工年が彫られている。
 下流に見える水門は和田吉野川に設けられた、
 玉作水門(平成13年竣工)。
   現在の横見堰
  ↑現在の横見堰(上流から)
   写真は和田吉野川に設けられた横見第1号堰(平成2年竣工)。
   和田吉野川の左岸を並行して流れる通殿川には、
   横見第2号堰が設けられている。形式は両堰ともラバーダム(ゴム堰)で、
   大きさは1号堰が径間9.0×堰高2.0m、2号堰が径間10.3×堰高1.75m。
   水利慣行を踏襲し、通殿川にも堰が設けられているのが特徴的だ。

 煉瓦と石材
↑煉瓦と石材
 煉瓦の平均実測寸法は228×106×59mm。
 平の面には
機械成形の跡が見られる。
 石材は中柱(堰柱)用だろうか。この形状のものが
 11個残っている。

   水切り
  ↑水切り
   16個残っている。
水切りの寸法は90×69cm(厚さ32cm
   ゲートは木製(ヒノキ)の
角落しであった。
   水切りの側面に見られる四角い溝に複数枚のゲートを
   嵌めこんで、水をせき止めていた。

(注)木製だった頃の横見堰の様子が新編武蔵風土記稿の
 大里郡玉作村(11巻、p.114)に記されている。文化年間(1810年頃)の調査である。
 ”和田吉野川:津田村の界を流る、幅四間村内にて荒川に合す、
 川に添て堤あり、此川に四間に二間の堰を設て、横見郡二十四ヶ村の用水を引く”
 当時の和田吉野川の川幅が四間(7.2m)であり、四間の堰を設けているので、
 河道を完全にせき止めていることがわかる。”四間に二間の堰を設て”の部分は
 堰を2基設けたのではなく、幅が四間で長さが二間の堰という意味だろう。


戻る:[埼玉県の煉瓦水門]  関連項目:[分量樋][分量樋2