会の川改修記念碑
↑会の川改修記念碑(加須市串作〜志多見:しだみ) 会の川の右岸、志多見堰の脇に残る。昭和13年に 会の川悪水路普通水利組合が建立した。 題字(會之川改修記念碑)は埼玉県知事 川西実三、 撰文は國學院大學学長の河野省三。同氏は加須市の 隣の騎西町出身で母校の埼玉中学校(現不動岡高校)で 教鞭をとったことがある。会の川の左岸(不動岡三丁目)に ある[不動岡中学発祥の地]の碑の撰文も河野氏である。 ちなみに不動岡高校の校歌の作詞者でもある。 碑文には昭和7年から13年にかけて実施された 会の川改修工事の詳細が記されている。県営事業だが、 農村振興耕地拡張改良事業として国庫補助を受け、 治水工事とかんがい・排水工事が、並行して行なわれた。 現在も会の川に残る古い橋梁や取水堰は、この事業で 建設されたものだ。当時の日本は世界恐慌の影響を受け、 昭和恐慌の時代である。各地で失業救済事業や 救農土木事業が展開された。 |
↑金兵衛堀と志多見溜井(加須市串作) 加須市指定史跡 写真中央が金兵衛堀、右端に見えるのが志多見堰。 志多見堰の上流には、かつては志多見溜井(ためい)が 設けられ、会の川は川幅が広くなっていた。 会の川の河道に農業用水を貯留するための巨大な 貯水池であった。現在ではその面影はなく、志多見堰の 脇の橋(溜井橋)にその名を残すのみである。 会の川は文禄3年(1594)に実施された締切りによって、 利根川の本流から切り離され、水源を失った。その27年後の 元和7年(1621)、羽生領代官 大河内金兵衛(大河内久綱)によって 志多見溜井は設けられた。これは農業用の貯水池であり、 上流からの排水を集めて下流の志多見・礼羽地区への かんがいに使った。志多見溜井から分水する用水路が金兵衛堀。 大河内金兵衛の名は、金兵衛橋(会の川、加須市)にも残っている。 ちなみに大河内金兵衛は、松平伊豆守信綱(忍藩主、川越藩主を 歴任し、のちに幕府の老中。知恵伊豆と称された)の実父である(補足)。 |
(補足)加須市志多見の長昌寺には、大河内金兵衛と松平信綱の
位牌が奉じられている。なぜか境内には、江戸城の石垣に
使われていたという間地石(けんちいし、楔形に切り出した石)も
残されている。