会の川 (その1) (その2)(その3)  [会の川のページ一覧

 撮影地:埼玉県羽生市(はにゅう)

 会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川(用悪水路)。
 羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で
 流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と
 大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 主な支川に土腐落、天神窪落、中新田川(保井落)、南方用水路(羽生領用水)がある。

 かつては会の川には2つの派川があり、羽生市砂山で分流し、それぞれが東と南へ向かって
 流れていた。東への流れは現在の手子堀用水路(南方用水路の支線)に相当し、南への流れは
 日川と呼ばれていた。日川は流路延長が長く、加須市、騎西町、久喜市、白岡町を流れ、
 最後は蓮田市笹山(岩槻市との境界付近)で元荒川へ合流していた。
 現在、日川の流路跡は明瞭には残っていないが、一部は古川落新川用水(騎西領用水)、
 日川水路(準用河川、蓮田市江ヶ崎で元荒川へ合流)となっている。 

 中世の国郡制の下では、埼玉郡には太田荘と埼西郡というのが設けられていたが、
 その境界となっていたのが、日川だとする見解もある(白岡町史 通史編上巻、p.118)。
 日川の左岸が太田荘、右岸が埼西郡である。近世になっても、太田荘という呼称はまだ民間には
 浸透していたようである。例えば、加須市志多見の会の川右岸には、延宝五年(1677)造立の
 庚申塔が祀られているが、それには埼玉郡太田荘羽生領別所村と記されている。

 会の川の現状:
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、
 しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と
 内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と
 堆積作用、それと季節風による作用で形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を
 会の川が流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて
 広範囲に分布している。このうち加須市志多見では、大規模な内陸砂丘の上にアカマツ林が
 形成され、埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。

 現在の会の川は、昭和7年から昭和13年にかけて実施された県営の改修事業によって、
 7ケ所に取水堰が設置された農業用水路(用排水兼用)に変貌を遂げている。
 改修事業の着工を契機として、会の川用悪水路土地改良区が結成され、会の川は用排水路として
 同改良区によって管理されてきたが、昭和43年(1968)に同改良区は見沼土地改良区と合併した。
 現在の
会の川見沼代用水から用水が補給されている。長い間、会の川は南羽生領と
 呼ばれた会の川の右岸地区(加須市志多見、馬内、礼羽、久下など)のかんがい水源だったが、
 下流部では、
会の川は加須市の中心部を流れているので、現在は都市排水路の役目も担っている。

 なお、会の川には上述の改修事業で建設されたと思われる古い橋梁が、約20基も群として残っている。
 これらの橋梁には現代の橋梁では目にすることができない秀逸な意匠が施されている。
 まさに近代化遺産と呼ぶにふさわしい。

 (追補)会の川の橋梁群は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産の
オンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 利根川の派川:
 近世以前の利根川はクモの巣のように乱流して、関東平野を放射状に東京湾に向かって流れていた。
 その様子は八百八筋とも称された。会の川はその本流のひとつであり、南利根川とも呼ばれていた。
 近世になってもその片鱗は残っていて、文政十一年(1828)の編纂である新編武蔵風土記稿の
 埼玉郡之一
(10巻、p.91)によれば、会の川の流路は埼玉郡川口村(加須市川口)で東南二派に分かれ、
 東の流れは島川(現在の中川)へ合流し、南の流れは古利根川(現在の葛西用水〜大落古利根川)へ
 合流していたと記述されている。東への流れは河川改修や土地改良事業によって現在は消滅している。

 会の川は過去には会野川、会ノ川、会之川、之川などと表記された。紛らわしいことに
 中世以前の利根川の派川には
合の川(間の川、間川、北利根)というのも存在した。
 これは
会の川とは反対に北へ向かって流れていたのだが、現在は廃川であり、
 利根川対岸の群馬県板倉町から埼玉県北川辺町にかけて、河道跡と堤防が残っている。
 合の川は上野国(現.群馬県)と武蔵国(現.埼玉県)の国境を規定する河川だった。

 会の川の締め切り:
 文禄3年(1594)、忍城主 松平忠吉(徳川家康の四男)の命により、会の川は羽生市上川俣で
 締切られた(注1)。上利根川(現在の利根川の流路に相当)から分岐し、南へ流れていた会の川は
 分岐地点に堤防が築かれて、上利根川から水が流れ込まないようにされた。
 これが利根川の瀬替え(東遷事業)の発端とされている。忍藩は現在の行田市にあった。
 なお、前掲書のp.91には、締切工事の指揮を担当したのは忍藩の小笠原三郎佐衛門だったと
 記されているが、会の川が締切られた当時、松平忠吉はわずか11歳であり、
 実質的な工事計画を練ったのは、関東郡代の伊奈家だったと思われる。
 その後、寛永年間(1625年頃)には、東利根(浅間川)の締め切り、新川通(現在の埼玉県大利根町
 付近の利根川)と赤堀川(現在の茨城県五霞町付近の利根川)の開削が実施され、利根川の流れは
 主に渡良瀬川へと繋げられた。利根川が形だけは太平洋へと注ぐようになるのは、会の川の締切から
 60年後の承応3年(1654)、赤堀川の3度目の開削(拡幅)によってである(注2)
 これは渡良瀬川と常陸川を赤堀川で繋いだもので、現代の河川用語では捷水路や放水路に相当する。

 流域の新田開発:
 会の川が流頭を締切られて廃川となったので、流域の羽生領(羽生市と加須市、大利根町の一部)(注3)
 以前よりも治水が安定したようである。江戸時代初頭(1620年頃)から、羽生領には農業用の堀や
 落し(用水路や排水路)が整備され、沼沢地を堀上田方式(ほりあげた)で干拓することで、
 新田の開発が進んだ(注4)。埼玉県域での大規模な新田開発としては、享保年間(1730年頃)の
 見沼代用水の開削に伴う事例が有名だが、羽生領の新田開発は、それよりも100年以上も前に
 既に実施されている。これは裏を返せば、当時の会の川流域にはある程度の人口の集中があったこと、
 流域の水利および土地条件が比較的良く、農地としての開発が容易だったことを示している。
 会の川の流域には、寛文九年(1669)〜延宝八年(1680)にかけての古い庚申塔が数多く分布し、
 それらの様式が当時最新の青面金剛像であるのも、情報や文化の伝播が速やかだったからだろう。

 新田開発に関連して排水路として、新たに開削された堀や落が、岩瀬落天神堀(現.中川)
 新・槐堀手子堀午の堀松原落などである。
 しかし、廃川となった会の川は志多見溜井が築かれたことを除けば、羽生領の用水路としては
 本格的に再開発されることはなかった(注5)。羽生領の用水路としては、会の川左岸の微高地に
 沿って南方用水路が開削されたが、水源は依然として北河原用水の流末に依存していた。
 この不安定な取水形態を解消するために、後に羽生領の用水は利根川から直接取水することになる。

 会の川が羽生領の新たな用水源となり得なかったのは、会の川が羽生領の低標高部(西端から南端)に
 位置していることに加え、流域には自然堤防が形成されているので、自然流下での配水が
 困難だったことが原因だろう。羽生領の地形は概ね北から南へ、かつ西から東へ向かって低くなる。
 なお、会の川の下流に位置する加須市の地名は、新田開発によって石高が加増したことに由来する、
 河州(川の中州)が訛った等の見解がある。河洲と似た発音の須加や須賀という地名も
 川による土砂の運搬・堆積作用によって形成された地形に由来することが多い。
 加須市は
会の川の自然堤防上に発達した街である。

 川俣締切跡
↑川俣締切跡 羽生市上新郷(かみしんごう)
 昭和橋の下流400m付近。後方は
利根川の右岸堤防
 締切跡は昭和18年に埼玉県指定史跡に指定された。
 会の川の締切り(文禄3年)の跡地には石碑が立つ。
 中央の小さな碑は、明治28年再興の〆切神社(締切)。

   会の川の起点付近

 ←会の川の起点付近(上流から)
 (羽生市上川俣〜小須賀)

 かつて、この付近には別所の泉と
 呼ばれる湧水があり、流頭締切後も
 会の川の水源となっていたようだが、
 今ではその片鱗はない。
 水源を失った会の川だが、現在は
 
見沼代用水から用水が補給されている。
 
北河原用水の余水も会の川へ
 分水されているようだ。
 会の川の外見は河川ではなく、
 完全に農業用水路である。
 水路幅は1.3mと狭い。
 会の川は、ここから100m下流では
 
埼玉用水路を伏越で横断している。
 その後は新郷用水路からの
 排水を集めながら、羽生市の
 西部を南へと流れる。

 羽生バイパスの付近
↑羽生バイパスの付近(下流から) 羽生市上新郷
 埼玉用水路と国道122号線の羽生バイパスの間に
 展開する風景。埼玉用水路は写真左上の建物の
 付近を流れている。会の川の左岸には
南方用水路
 (埼玉用水路から分水、羽生領用水)が並行して流れる。
 往古の一時期には、この一帯は利根川の氾濫原であり、
 河川敷の様相が広がっていたはずだが、今はのんびりと
 した農村景観へと変貌している。現在の会の川は
 柵渠(コンクリートの板で囲まれた水路)であり、
 川幅は約2mと狭い。写真の左端に見えるのは
 悪水(農業排水)を会の川へ放流する樋管。
 会の川は用排水兼用の水路である。

   土腐落の合流
  ↑土腐落の合流(下流から)
   右岸:羽生市上新郷、左岸:羽生市小須賀
   右岸に
土腐落が合流する。土腐落は行田市須加から
   流れて来る排水路だが、見沼代用水から用水が補給され、
   会の川へ注水されている。土腐落の合流後から会の川の
   川幅は約4mに広がり、コンクリートの三面護岸に変わる。
   この地点の下流では四ツ家用水(見沼代用水から分水)の
   流末が合流している。会の川は上新郷と小須賀の境界を
   流れているが、かつては忍領と羽生領の境界でもあった。
   県道
7号線(かつての日光裏街道)脇の民家には、江戸時代に
   建てられた忍領の境界石標(従是西忍領)が残っている。
   また、ここから500m南の県道
7号交差点には、大正時代に
   設置された
新郷村の道路元標が残っている。

 秩父鉄道を横断
↑秩父鉄道を横断(上流から、起点から2Km下流)
 右岸:羽生市上新郷、左岸:羽生市上岩瀬
 土腐落の合流から1Km下流。県道128号線の南側で
 会の川は秩父鉄道を横断する。その地点に架かる、
 
会の川橋梁は大正10年(1921)建設のプレートガーダー
 橋(橋台は煉瓦造)。橋梁から200m西側には新郷駅が
 ある。会の川橋梁の左岸下流に位置する御霊神社
 (ごりょう)は菅原道真、早良親王、吉備公などの八柱を
 祀ったもので、会の川が氾濫した時に疫病が流行り、
 それを鎮めるために勧請されたのだという。
 対岸には鳥居の数が多いことが特徴の堂城稲荷がある。
 ここから300m下流では、天神窪落(埼玉用水路掛りの
 水田からの排水路)が会の川の右岸へ合流している。

   
建福寺霊園の付近
  ↑建福寺霊園の付近(下流から、起点から3Km下流)
   右岸:羽生市上新郷、左岸:羽生市上岩瀬
   秩父鉄道から1Km下流。川幅は約6mに広がり、
   コンクリートで三面護岸が施されている。会の川の右岸には
   新郷用水路(北河原用水の流末)が流れ、この地点では
   右岸へ
中新田川(新郷用水の落)が合流している。
   左岸の建福寺には1715年建立の
石橋供養塔が残っている。
   会の川または南方用水路に石橋を架けたさいに、橋の供養
   (当時の供養は感謝とか記念の意味合いが強い)をしたものだろう。
   なお、新編武蔵風土記稿(10巻、p.91)には、夫木和歌集に
   詠われた岩瀬の渡しとは、この地ではないかと記され、
   会の川について、”当時大河なりしこと知るべし”とある。
   下岩瀬の稲荷・奈広神社付近が、渡しの跡地だとされてきた。

(注1)締め切り当時の会の川の状況:
 羽生市上川俣の利根川を挟んだ対岸は、群馬県邑楽郡明和町川俣である。
 川俣というのは文字通り、川が分岐していることを反映した地名であり、
 かつて利根川は川俣付近では、十字の形をして流れていたようである。
 南へ流れる会の川に対して、北へ向かう流れも存在した。現在は河道は
 消滅しているが、その痕跡の河川が
谷田川である。
 会の川は古代や中世には、利根川の主流ともいえる時期が長かったようだが、
 近世初頭の時点では老朽化がかなり進行していたようだ。会の川の上流域に
 存在する大規模な自然堤防と内陸砂丘がそれを裏付けている。
 自然堤防は会の川の氾濫のさいに、土砂が川の両岸へ堆積して
 形成された微高地である。成因は長期間に渡って、大量の土砂が運搬されたこと、
 かつ、それが可能なだけの水量が河川にあったことである(だから氾濫する)。
 これを逆に見れば、水量が減少すると河川の土砂運搬能力は低下し、
 土砂は河床に堆積することになる。つまり、流積が減少し河川は水量が少ないにも
 かかわらず、さらに氾濫しやすくなる。いわゆる河川の老朽化である。
 自然堤防は珍しいものではないが、内陸砂丘は埼玉県内では
 会の川、中川、大落古利根川、元荒川の周辺にしか存在していない。
 会の川の内陸砂丘は、羽生市小須賀、上岩瀬、下岩瀬、砂山、加須市志多見、
 南篠崎などに分布している。とりわけ志多見砂丘は延長が3Kmにも及び大規模である。
 また、会の川の派川(現在は
手子堀用水)沿いの羽生市須影地区にも
 内陸砂丘と微高地が見られる。内陸砂丘の成因は会の川が供給した大量の砂と
 北西の季節風、それと会の川の緩い河床勾配である。
 近世初頭の会の川は老朽化が進行した河川であり、流頭部(締め切り地点)には
 堆砂によって、大きな砂州が形成されていたとの記録が残っている。
 このため、利根川から会の川へ流れ込む水量はかなり少なかったと思われる。
 流頭部が半分塞がれたような状態だったので、利根川という大河(の派川)の
 締め切りではあるが、さほど難工事ではなかったのだろう。

(注2)利根川の東遷の第一歩:
 会の川の締め切りには関東郡代だった伊奈家が関与していると思われるが、
 名目上は忍藩という地方の一藩によって実施されたものであり、徳川幕府が
 利根川の東遷という全体構想の下で行なったものではない。もっとも工事を
 公認しているので、背景には何らかの目論見があったのかも知れないが。
 利根川の瀬替えの目的は、治水のため、新田開発のため、江戸を中心とする舟運のため、
 北方の外様大名に対する防御のため、と諸説があるが、その当時の社会背景や
 ニーズに応じて、その時代の土木技術で可能な範囲の改修が少しずつ
 進められたといえる。したがって、利根川の流れも少しずつ東へ向かった。
 承応3年(1654)の東遷によって、利根川は太平洋へ注ぐようにはなったが、
 赤堀川は川幅13間(約24m)の細流であり、現在の利根川の姿とは程遠い。
 赤堀川は利根川の放水路的な位置付けであり、利根川の主流は依然として
 
権現堂川から庄内古川への流れだったようだ。ともあれ、江戸時代を通じて、
 利根川は河川形態的には、乱流していた支川・派川が整理され、河道が固定された。
 その後も利根川には、時局に応じた改修が延々と続けられたが、明治期の
 足尾鉱山の鉱毒事件、
中条堤の廃止、渡良瀬遊水地の建設などが
 河川整備計画の大きな転機となった。
 そして、近代的な改修が完了するのは内務省(現在の国土交通省)による、
 利根川第三期改修工事(昭和初期に終了)によってである。
 しかし、昭和22年(1947)9月にはカスリーン台風による洪水で、
 利根川の右岸堤防が大利根町新川通で決壊した。→
カスリーン公園

(注3)羽生領の用水:
 会の川はかつては利根川の派川であり、傾斜が緩い低地を乱流して流れていた。
 乱流跡には自然堤防が形成されていて、周辺地域(加須低地)よりも標高が高くなっている。
 羽生市上岩瀬などでは、低地と自然堤防の比高は3〜4mにも達している。
 集落は低地を避け、自然堤防の上に発達している。
 そのためだろうか、会の川の流路は領(中世からの水利共同体)の境界とほぼ一致する。
 例えば会の川の西側(新郷村など)は忍領、南側は騎西領(ただし、現在の加須市
 の区域は羽生領)、残る東側と北側が羽生領である。
 羽生領は北を利根川、西と南を会の川、東を
浅間川に囲まれた盆状の低地である。
 現在はその面影ははっきりと残っていないが、近世初頭まで羽生領は四方を
 河川(すべて利根川の派川)と堤防で囲まれた輪中地帯だった。
 浅間川はかつては東利根とも呼ばれ、会の川と同様に利根川の派川であった。
 現在の加須市と大利根町の境界付近を流れていたが、締め切り後に河道や河川敷が
 農地へと開発されたために流路は現存していない。跡地は
埼玉用水路の支線である、
 古利根用水路となっている。なお、羽生領の南側区域(会の川の右岸の志多見村、
 馬内村、加須町など)は、羽生領に属していながら、かんがいには羽生領の用水路は
 おろか悪水路も使っていなかった。用水は会の川から取水し、排水は
青毛堀
 
六郷堀(共に騎西領の悪水路)へ流すという特異な地域であったことは興味深い。
 現在も地域的な特異性は残っていて、加須市阿良川、平永地区の一部は
 会の川からではなく、見沼代用水から用水を取水している(
彦八郎用水)。

(注4)新田開発:
 新編武蔵風土記稿によれば、羽生領の村で近世初頭に興ったのは、
 砂山村(10巻、p.296)が文禄年間(1595年頃)、町屋新田(10巻、p.300)が
 寛永年間(1630年頃)、松永新田(10巻、p.315)が慶長年間(1605年頃)となっている。
 なお、埼玉県域では江戸時代初頭から既に、大規模な新田開発が進行している。
 大宮市史 第三巻上、p.595によれば、武蔵田園簿などに
 記された石高の変遷は、以下のようになっている。
  慶長三年(1598) 67万石
  正保二年(1645) 98万石
  元禄十年(1697) 117万石
  天保年間(1830) 128万石
 慶長から正保にかけての50年間の伸び率が、1.46倍と群を抜いて
 大きいことがわかる。この時期には埼玉県域では、利根川の東遷、
 荒川の西遷など、幕府による大規模な河川工事が実施されているので、
 それに伴い、周辺地域では治水や利水の環境が整えられ、新田開発が
 飛躍的に拡大したのである。一般的には享保の改革等による江戸時代後期の
 新田開発が有名だが、埼玉県域に限れば元禄十年の時点で、
 既に幕末(天保年間)の91%まで、新田が開発されていたのが実態である。

(注5)葛西用水に利用された会の川:
 万治3年(1660)には、関東郡代・伊奈忠克によって葛西用水路が開削されている。
 これは羽生市本川俣の利根川に樋管を伏せ込み、新たな農業用水路を
 会の川の下流部(加須市川口付近)へ繋げたものである。
 廃川となった会の川の一部(加須市大桑〜川口)は、葛西用水路へと
 整備され復活した。もっとも葛西用水は、幸手領以南の農業用水路であり、
 羽生領へはあまり恩恵はないのだが。


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