荒川 - 西野橋の周辺 [荒川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県上尾市、比企郡川島町、荒川の河川敷
(注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。
↑県央ふれあいんぐロード(上尾市畔吉) 北本自然観察公園から上尾丸山公園の付近までの 左岸側に設けられたサイクリングロード。右岸側の 荒川自転車道が、堤防の上を走るのに対して、 県央ふれあいんぐロードは河川敷の中を走る。 路線は直角に曲がる箇所が多い。この付近には 畔吉の渡し場(注1)の跡が残っている。大正時代の 後期まで渡し(渡船)が続けられていた。なお、畔吉と 領家の境界付近の左岸堤防に設けられた本村樋管は 部分的に改築されているが、昭和2年(1927)竣工の 古いRC樋管である。 |
↑左岸堤防から見た西野橋(上尾市平方) 右岸にあるのはゴルフ場。西野橋は一般車両も通行できるが、 通行量が最も多いのはゴルフ場のカートだ。 この付近は荒川の両岸が上尾市である。西野橋から 下流の荒川の流路は、昭和初期の河川改修で 新たに開削したもので、地元の古老は今でも 新川と呼ぶそうだ。西野橋を渡り、ゴルフ場の外周に 沿って西へ進むと、三ツ又沼ビオトープへ辿り着く。 |
←上流から見た西野橋(にしや) 西野橋の橋脚が茶色になっているのは、洪水時の土石の衝突に よって塗装が剥げたため。下流(600m先)に見えるのは開平橋。 開平橋の左岸には旧橋(木造の冠水橋)の遺構(橋脚)が残っている。 冠水橋が建設されたのは昭和27年だが、それ以前の開平橋は 舟橋だった。舟橋とは川に船を並べて、その上に板を敷いた構造の 仮橋のこと。舟運の邪魔にならないように、船は随意に移動 できたようで、開閉できる橋(可動橋の一種)なので、開平橋と 命名されたようだ。最初の開平橋は明治16年(1883)12月に 架けられた。建材には橘神社(旧氷川神社)の社叢林を伐採して 使った。→上尾市史第七巻、p.86-87 なお、開平橋の付近には昭和初期まで、河岸場(平方河岸)が あった(注2)。物流の利を反映してか、明治時代には煉瓦工場も 設立されている。平方は水運だけでなく、陸路でも上尾と川越を 結ぶ要所だった。橘神社の入口には平方村の道路元標が今も残っている。 |
←三ツ又沼ビオトープ (川島町出丸中郷〜川越市上老袋) 三ツ又沼ビオトープは西野橋から西へ約700mの 河川敷内に位置する。上尾市、川島町、川越市に跨り、 敷地はゴルフ場の西側付近から白山神社(川島町)の 東側までの南北約1Km、面積13haと広大だ。 この付近は、かつて入間川が荒川へ合流する地点であった。 高水敷には、湿地や自然林がビオトープとして 保存されていて、昔の流路や堤防の跡も色濃く残っている。 三ツ又沼の北側には横堤があり、周辺の堤外地には 集落らしき跡や墓石が残っている。 これは消滅してしまった比企郡戸崎村の跡であろう。 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)6巻、p.17には 戸崎村は”村名のみにて人家なし”と記録されている。 |
↑河川敷内の沼、白山池(川島町出丸中郷) 白山神社の東側、荒川の河川敷内にある。右岸堤防の 川表に隣接した外周約400mの大きな沼だ。写真奥に 見えるのは長さ約500mの横堤。下流の河川敷に広がる 耕地を洪水から守るためのもの。出丸地区は川島町で 最も標高が低く、しかも荒川と入間川が合流しているので かつては水害常襲地だった。堤外にあった引船聖観音は 白山神社の裏へ移転された(注3)。なお、白山神社は 白山古墳の上に建てられている。現在と同様に荒川の 自然堤防上には、古い時代から人が居住していたのだ。 |
↑川島領囲堤の南縁(川島町出丸中郷)(注4) 写真は入間川の左岸堤防上から。白山神社(左端)の南側では 入間川の左岸堤防が荒川の右岸堤防へすり付いている。 写真の手前が入間川の左岸堤防、奥が荒川の右岸堤防。 かつて入間川の左岸堤防は、川島領囲堤の南縁だった。 写真の右端には入間川の旧流路跡も残っている。 出丸地区の悪水は、川島領囲堤に伏せ込まれた横塚樋管から 入間川へ排水される。なお、荒川の右岸堤防は県道339号線を 兼ねていて、そのまま南(下流)へ進むと、開平橋(荒川)、 入間大橋(入間川)に辿り着く。 |
(注1)畔吉の渡しは、武蔵国郡村誌の足立郡畔吉村(3巻、p.107)に
記された”渡”のことであろう。”渡:村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 馬渡”
渡しには河岸場もあったようで、同書には似ヒラタ船6艘とも記載されている。
ヒラタ船とは中小型の荷船。なお、渡し跡から北東へ700mの地点に
位置する諏訪神社の境内には、水に関する神様の石祠が多く見られ、
弁財天、琴平神社を始め、寛政五年(1793)建立の水神宮、
天保十四年(1843)建立の水神などが祀られている。
本来は畔吉の渡にあったが、後に諏訪神社へ移築されたものも
あると思われる。これらの石祠は河岸場と渡しの関係者が、
水運の安全等を祈願して奉納したのだろう。琴平神社の台座には
商人講中とあり、近隣の9村の名前が刻まれている。
(注2)平方河岸は文政年間(1830年頃)の調査を基に編纂された、
新編武蔵風土記稿の足立郡平方村(8巻、p.63)によれば、
寛文九年(1669)には既に存在していたという。平方河岸は木材輸送の
中継基地でもあり、筏宿などが設けられていた。河岸は入間川が
荒川へ合流する地点の直下流に位置していたので、筏流しによって
秩父から運ばれた木材と入間川から運ばれた木材(西川材)の集積地だった。
明治初期になっても、まだ河岸場の規模は大きかったようで、
武蔵国郡村誌の足立郡平方村(2巻、p.367)には、荷船18艘と
記述されている。河岸場には渡もあった。
”平方渡:村道に属す村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 官渡なり”
荒川にしては珍しく官設(県営)の渡しである。
なお、武蔵国郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されている。
現在、橘神社の境内には、寛政五年(1793)建立の水神宮と
寛政八年(1796)建立の八大龍王が祀られているが、それらは
平方河岸にあったものだという。共に水の神様であり、河岸場の関係者が
水運の安全を祈願して奉納したものだ。
また、橘神社には神明社を祀った高さ約1.7mの大きな石祠(上尾市
指定有形文化財)があるが、これは享保二年(1717)に平方河岸の
出入商人が奉納したもので、側面にその旨が記されている。
(注3)[埼玉の神社]によれば、白山神社は山岳信仰を基本とする修験道の
神社であり、元は白山妙理大権現と称していたが、明治時代初期の
神仏分離のさいに白山太神社と改称したという。同書には棟札に
白山妙理九頭龍大権現と記されていたとあるから、水神である九頭龍が
祀られていたことになる。付近にある若一王子社は一般的には熊野神社の
分祀社を指すが、ここの若一王子社は白山神社から分祀したようである
なお、川島の石仏伝承、p.51によれば、東京浅草の浅草寺の本尊は
荒川の洪水のさいに、堤外にあった引船聖観音から仏が流れて行き、
浅草へ漂着したのが起源だという。
白山池には奇怪な伝承がある。付近で農作業をしていた村人が
目に土が入ってしまったので、白山池の水で目を洗ったのだという。
すると症状が悪化し、挙句には片方の目が見えなくなってしまった。
それ以来、白山池には片目の魚が棲み、池の魚は捕ってはいけないとの
言い伝えが残ったそうだ(川島のむかし話、石島年男、p.206)
(注4)川島町には出丸中郷、出丸下郷、出丸本という、ちょっと変わった地名がある。
新編武蔵風土記稿の比企郡出丸本村によれば、出丸(でまる)は
古くは伊豆丸(いずまる)と表記していたが、寛永十六年(1639)に
松平伊豆守信綱の領地となったおりに、領主と同じ名は憚かれたので、
出丸へ改称したのだという。
伊豆(いず)の表記を[入ず]に改めただけではなく、意味まで逆にしたようだ。
[入ず丸]ではなく[出ず丸]というわけだ。[入ず]だと何かに対して
忌み言葉になってしまったのだろうか。