高麗川 - 高麗川大橋から終点まで [高麗川のページ一覧]
↑粟生田堰(あおうだせき、上流から) 左岸:坂戸市中里、右岸:坂戸市粟生田 高麗川大橋から撮影。粟生田堰は農業用水の取水堰。 起伏ゲートを2門装備し、右岸へ取水(最大取水量は 約0.6m3/s)している。建設は大本組。 粟生田堰は過去には堰の設置に関して下流側の 川島町との間に紛糾が絶えなかったそうであるが、 昭和56年(1981)に現在の位置(旧堰は400m下流の 坂戸市清掃センターの付近にあった)に再建された。 粟生田堰の右岸には1756年建立の石橋供養塔がある。 |
↑旧.高麗川大橋の遺構 坂戸市泉町三丁目 高麗川大橋から900m下流の右岸、泉中学校の南側の 大安公園の中に保存されている。旧.高麗川大橋は 大正13年(1924)に建設された鉄筋コンクリートの桁橋で、 昭和61年(1986)まで使われた。遺構は桁が2スパンと、 親柱(高さ1.7m、0.4m角、銘板あり)、欄干(高さ1.15m)である。 コンクリートの表面に疑石調の化粧が施されているのが、 昔の橋ならではの手の込んだ装飾だ。 旧.高麗川大橋の橋長は160mであったというから、 現在の高麗川大橋の長さ(約200m)と、たいして変わらない。 |
↑戸口橋付近の高麗川(上流から) 左岸:坂戸市戸口、右岸:坂戸市泉町三丁目 高麗川大橋から1Km下流。高麗川は建設省(当時)に よって昭和50年代に河川改修がおこなわれている。 現在の大規模な連続堤防も、この時に建設された。 無理に直線化せずに適度に蛇行を残しているようだ。 左岸の霞堤と河畔林が適度に残されているのは うれしい。かつて、この付近では高麗川は頻繁に蛇行を 繰り返して流れていたことは、現在の複雑な字界から 推測できる。左岸沿いにはサイカチ、村下(むらげ)という 地名が続く。金属精錬の痕跡が刻み込まれた地名だ。 |
↑北坂戸橋の付近(上流から) 左岸:坂戸市戸口、右岸:坂戸市伊豆の山町 戸口橋から500m下流の付近。北坂戸橋は高麗川の 第一橋(最後に架かる橋)。付近には高麗川環境側帯と 称された緩傾斜の護岸が続く。所々に階段状の護岸が 施されているので、簡単に水辺へ降りて行ける。 堤防天端は旧堤防(不連続な霞堤)跡をスーパー堤防風に 拡幅して、小公園が造成されている。 高麗川の右岸堤防は、坂戸市サイクリング道路として 整備されているが、高麗川大橋から越辺川の島田橋までの 約4Kmと区間は非常に短い。 |
↑葛川の終点付近(右岸から、坂戸市新ケ谷) 北坂戸橋から900m下流の河川敷の中。 葛川は高麗川の支流。高麗川が越辺川へ合流する、 直前で高麗川の左岸へ合流している。 写真は葛川の第一橋(最下流の橋)。 この橋は高麗川の左岸堤防と越辺川の右岸堤防の間に 設けられている。上部に見えるのが越辺川の右岸堤防。 |
↑高麗川の終点(下流から、坂戸市上吉田) 葛川の終点から300m下流。 越辺川に合流して高麗川は終わる。 写真の左側が高麗川。対岸(写真上部)は東松山市田木。 合流付近には水門(逆流防止)や護岸は設けられていない。 河床の土質分布はレキ5、砂3、粘土2であろうか。終点付近の 高麗川の右岸堤防(川裏)には、九頭龍神社(明治12年)が祀られて いる。九頭龍とは水神で、水害多発地点に祀られることが多い(注)。 |
(注)九頭龍は洪水除け祈願だけでなく、舟運や渡河の安全祈願の
ためにも祀られる。近世の民間信仰は、私達の想像よりも多義的である。
高麗川の終点付近には、かつて吉田河岸があったので、
この九頭龍は河岸場の関係者が水運の安全を祈願して祀ったものだろう。
南側に位置する諏訪神社には水神社が合祀されているが、
これも河岸場関係者が祀ったものだろう。
なお、吉田河岸の付近には筏の組み替え所もあり、
高麗川の上流から筏流しで運ばれた西川材(木材)が
より大きな筏へと仕立てられていた(坂戸市史 通史編II、p.108)。