越辺川 - 島田橋の周辺  [越辺川のページ一覧

 撮影地:埼玉県坂戸市、東松山市  越辺川
 (注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。

 高麗川
↑高麗川の合流(高麗川の右岸堤防から)
 島田橋から上流へ1.2km、坂戸市上吉田では
 高麗川(こまがわ)が越辺川の右岸に合流する。
 →
高麗川の詳細  写真手前が高麗川、
 左上が高麗川の左岸堤防。高麗川の左岸堤防は
 越辺川の右岸堤防へ完全にすり付いてなく、
 開口部があり、そこから葛川が高麗川へ合流している。
 左岸堤防の上に見える青い橋は、越辺川の樋口橋。
 (関越自動車道の高坂S.Aも、うっすらと見える)

   謎の標石
  ↑謎の標石 坂戸市上吉田
   花崗岩製。高麗川が合流する付近の越辺川の
   右岸堤防上にあり、表面に[本法河川
 越邊川起点、
   埼玉縣]と刻まれている。昭和初期の河川改修のさいに
   設置され、その工事起点を示したものだろう。
   埼玉県内の河川には
同様な標石が数多く現存している。
   越邊川は越辺川のことだろうけど、本法河川ってナニ?

  越辺川橋梁
↑越辺川橋梁(右岸上流から)
 右岸:坂戸市上吉田、左岸:東松山市毛塚
 島田橋の上流900mに位置する。東武東上線の
 北坂戸駅〜高坂駅間にある鉄道橋。初代の橋梁は
 大正12年(1923)に武州松山駅〜坂戸町駅間が
 開通した時に建設された。現在は全面的に改修されて
 いて、桁と橋台・橋脚は新しくなっている。橋の形式は
 3連の鋼ワーレントラス。→
越辺川橋梁の詳細
 一方、越辺川周辺の東上線の築堤(軌道盛土)には
 大正時代に建造された跨道橋(橋台が煉瓦造り)が
 数多く残っている。

   
株木用水堰
  ↑株木用水堰(越辺川の右岸上流から)
   右岸:坂戸市島田、左岸:東松山市毛塚
   島田橋の上流300mに位置する。コンクリートの枠の中に
   石を詰め込んだ固定堰(農業用水)。幅は約50mで、
   中央部には水通しが設けられている。これは越辺川で筏流しが
   行なわれていた頃の名残りだろうか。写真の手前は株木用水の
   取水樋管。右岸に広がる島田、赤尾、石井地区の水田へ
   水を供給している。→
越辺川周辺の耕地整理記念碑
   なお、島田橋から1.1Km下流では九十九川(つくも、一級河川)が
   越辺川の左岸に合流している。九十九川には高坂終末処理場の
   付近に
鎌田樋管(煉瓦造りの水門、明治32年竣工)が現存する。

 島田橋
↑島田橋(越辺川の左岸堤防から) 東松山市宮鼻
 河川敷の中に架かる木製の冠水橋(潜水橋、沈下橋)。
 越辺川が増水すると渡れない。越辺川はこの付近では
 堤防天端間の距離が約200mあるが、島田橋の長さは
 約80mである。1920年頃に上流に高坂橋(国道407号
 線)が架けられるまでは、ここは坂戸から東松山方面へ
 抜ける街道だった(注1)。東松山市側は九十九川の
 河川敷であり、流作場(農地兼遊水地)のような形態と
 なっているので、人家は少ないが、坂戸市側の
 島田地区は街道沿いに人家が軒を連ね、渡船場や
 宿場(島田宿)の面影が今も微かだが残っている。

   
石仏群
  ↑石仏群(島田橋の右岸、堤防の裾) 坂戸市島田
   地蔵菩薩、庚申塔、観音像、馬頭観音、巡礼供養塔、
   水神宮など11基が祀られている。数が多いうえに種類も
   豊富なので、全ての石仏が当初からここにあるのではなく、
   あちこちから集められたのだと思われる。
水神宮は渡船の
   安全を祈願したものだろう。ここから800m下流にある、
   九頭龍神社も水神の一種である。これらの石仏は全体的に
   文化年間(1800年代)以降の比較的新しい物が多いが、
   地蔵菩薩は天和三年(1683)と古い(注2)。なお、ここから
   400m南の県道256号線の脇には、石橋五ヶ所の銘が
   ある
道祖神も残っている。これは塞の神(魔除け、結界)だ。

(注1)明治時代初期の頃、坂戸市側から島田橋へと通じる道は東京街道と呼ばれていた。
 東京街道が越辺川を渡る地点には橋はなく、渡し(船による渡河)であった。
 これが島田橋の前身といえる。俗にいう島田の渡しである。武蔵国郡村誌(明治9年の
 調査を基に編纂)の入間郡島田村(4巻、p.487)には、この渡しについて、
 ”越辺川渡:東京街道に属し
 村の北方 越辺川の中流にあり 渡船二艘 私渡”と記されている。
 私渡とあるように、官設(県や村が管理運営)ではなく、民間運営の渡しだった。
 船二艘の内訳は人渡一艘、馬渡一艘である。馬渡には馬が乗れる大きな船が使われた。

 なお、東京街道の路線は、江戸時代の街道である川越児玉往還と重なる部分が多い。
 島田の渡し付近は、川越児玉往還から日光脇往還(八王子千人同心道)への
 追分でもあったようだ。島田地区は越辺川を挟んで、街道筋の石井宿(坂戸市)と
 高坂宿(東松山市)の間に位置するので、間の宿(あいのしゅく)の役割も
 果たしたのだろう。坂戸市側の集落が越辺川に沿った自然堤防上に、
 西から東へと連なっているのに対して、島田地区の集落は越辺川に向かって
 南から北へと分布している。明治時代から大正時代にかけて、東京街道の路線には
 島田・川越間を結ぶ乗合馬車が運行していた。坂戸市史
 通史編II(p.216)によれば、
 走行中に鳴らすラッパの音から、テト馬車として親しまれていたという。
 島田宿にはその発着所が設けられていた。

 島田の渡しの上流には、日光脇往還の毛上戸(けあげと)の渡しも存在した。
 これは坂戸市上吉田村と東松山市田木とを結んだもので、
 越辺川橋梁の上流付近にあったと思われる。
 武蔵国郡村誌の入間郡上吉田村(5巻、p.62)に概要が記録されている。
 ”毛上戸渡:日光往還に属し
 村の東方 越辺川の下流にあり”
 なお、対岸の比企郡田木村(現在の東松山市田木)にも表記は異なるが、
 発音が同じ、蹴上戸という字名が存在する。

(注2)島田橋の左岸側の東松山市宮鼻地区にも、古い石仏が存在する。
 例えば、島田橋から北へ500m、八幡神社の付近には、宮鼻の石仏群が
 あり、その中の庚申塔は
寛文十一年(1671)の建立である。
 古い庚申塔なので、主尊が青面金剛ではなく、阿弥陀如来だ。
 西に位置する香林寺には、安永三年(1774)建立の
石橋供養塔もある。

 なお、東松山市正代地区の御霊神社には、鎌倉権五郎景政が
 祀られているという(武蔵国郡村誌
 6巻、p.162、比企郡正代村)。
 片目でありながら、武運に優れたとの伝承を持つ鎌倉時代の武士である。
 熊谷市上奈良の豊布都神社(とよふつ)も旧称は御霊社であり、鎌倉景政が祀られている。
 新編武蔵風土記稿(8巻、p.117)によれば、大里郡高本村(現在の大里町高本)に
 存在した村社
 御霊明神社(現在は高城神社に合祀か?)も鎌倉権五郎を祀っていた。

 近隣にはこれと似た言い伝えを持つ神社が多くあり、滑川町の羽尾神社
 祀られた藤原恒儀も不慮の事故で片目になったとされている(滑川村誌 民俗編、p.319)。
 吉見町南吉見の羽黒神社は、お羽黒さま(祭神)が片目だったという(吉見の昔ばなし、p.6)
 羽尾神社と羽黒神社の伝承は共に、祭神が大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目に
 なってしまったというもので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされている。

 正代地区は鎌倉時代には小代郷と呼ばれ、小代氏(児玉党を
 出自とする武士)の居住地であった。小代氏の配下に置かれ、
 鋳物生産を行っていたのが、小代鋳物師(いもじ)と呼ばれる集団である。
 正代地区と都幾川を挟んで対峙する川島町長楽に、金山という小字が
 あるが、これも金属の精錬と何らかの関係があるのだろう。


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