旧福川と旧流路跡 [福川のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡妻沼町、熊谷市
福川の中流部は昭和初期まで、妻沼町から熊谷市の付近では、頻繁に蛇行して流れていた。
大正10年から昭和6年にかけて県営の福川改修事業が実施され、その蛇行区間は直線化された。
旧福川とは現在の福川の左岸側に残された旧流路を都市排水路として整備したもの。
妻沼町上根地区の境界に沿って流れ、最後は福川へ合流する。延長は約2Km。
(1)旧福川の起点付近(下流から) 右岸:妻沼町西野、左岸:弥藤吾(やとうご) 水路底にコンクリートが打たれた区間。上井殿橋 (国道407号線、福川)の下流200m付近から始まり 弥栄橋まで約400m続いている。都市排水(雨水)の 調整池として整備されているようだ。 |
(2)明治橋の付近(上流から) 左岸:妻沼町弥藤吾、右岸:上根 明治橋は県道341号太田熊谷線の橋。バス停[リード本社前]の 脇に架かる。旧福川は写真(1)の下流から約600mの区間は 荒地のままで、このような状態となっている。 なお、リード(株)の西側の道路脇には斉藤塚と呼ばれる塚が あり、庚申塔や万延元年(1860)建立の道祖神が祀られている。 |
(3)明治橋の旧橋跡? 明治橋の上流10mには、旧橋の橋台と思われる、 煉瓦積みの遺構が両岸に残っていて、明治橋から肉眼で はっきりと確認できる。天端幅は約5mあり、端部には 隅石が施された本格的な仕様である。 本体はイギリス積みで組まれていて、建材には赤煉瓦が 使われているが、部分的に焼過煉瓦も見られる。 |
(4)旧福橋の付近(下流から) 右岸:妻沼町上根、左岸:弥藤吾 妻沼高校の南側から撮影。旧福橋が架かる町道は廃線となった、 妻沼線(東武熊谷線)の路線跡である。写真奥の木立の付近(観清寺)では、 左岸に備前渠用水の流末が合流している。なお、観清寺には 明治21年(1888)から23年間、幡羅高等小学校が置かれていた。 境内にはその由来碑がある。観清寺には芭蕉の句碑もある。 ここから150m下流の右岸のほとりには 天明元年(1781)建立の水神宮(水の神様)が祀られている。 |
(5)旧福川(下流から) 右岸:妻沼町上根、左岸:江波 写真(4)から1Km下流。長井小学校の付近。 川幅(天端幅)は約8mへと広がっている。 水路はコンクリート護岸(貼りブロック)の台形断面で、 掘り込みは非常に深い。両岸には民家はほとんどなく、 水田が広がっている。かつての福川の河川敷だが、 氾濫原の印象が残っている。なお、旧福橋から最下流の 学校橋までの約1.5Kmの区間、歩行者専用橋は 2基あるが、道路橋は架けられていない。 |
(6)旧福川の終点(上流から) 左岸:妻沼町江波、右岸:上根 長井小学校から400m下流、学校橋から撮影。 旧福川は福川の左岸へ合流する。奥に見えるのは 200m下流に位置する旧福川排水機場。 福川の対岸には新奈良川排水機場が設けられていて、 新奈良川(準用河川)が合流しているが、新奈良川も 流路の一部は福川の旧河道を再整備したもの。 |
↑福川の旧流路跡(西側から) 左岸:妻沼町日向(ひなた)、右岸:熊谷市上中条 福川の右岸と中条堤の間には現在は水田が 広がっているが、かつてここは利根川と福川の洪水を 貯えるための遊水地であった。その中に約1Kmにわたって 福川の旧流路が残っている。写真の左端が旧流路の右岸で、 奥に見える木立の付近まで延々と続いている。 |
↑福川の旧流路(上流から) この旧流路は大正10年から昭和6年にかけて実施された、 県営の福川改修事業の完了後に廃棄されたものだが、 近年まで北河原用水の水路として使われていたようである。 水源を失った旧流路は現在は沼地と化して、周囲には 葦が生い茂っている。福川の旧流路は 明治初期まで旛羅郡と埼玉郡の郡界であった。 左岸は旛羅郡日向村、右岸は埼玉郡上中条村。 |