大工町堤
所在地:荒川右岸、埼玉県比企郡吉見町中新井、北下砂、丸貫
大工町堤は荒川の右岸に残る控堤。控堤とは河川の本堤(いわゆる堤防)ではなく、本堤から
直角方向に延びた控え(予備)の堤防のことである。荒川の上流右岸に設けられた控堤:横手堤や
吉見領の大囲堤(現在の吉見桜堤など)と同じく、寛永年間(1620年頃)の築造だと思われる。
吉見領は西部に丘陵地帯が存在するために、大囲堤は完全には閉じておらず西側が開放されていた。
このため豪雨のさいには丘陵から流下する雨水が領内に進入してしまうのである。大囲堤の内部にまで
村囲いのために控堤を設ける必要があったという点で、大工町堤(及び市野川左岸の縦土堤)の
存在は吉見領の水害の深刻さを示している。
大工町堤は吉見町中新井の薬王寺付近から東へ向かって延び、北下砂と丸貫の境界に沿って、
荒川の右岸堤防の裾まで続いている。下流側に位置する丸貫村、古名村へ洪水流が流下するのを、
食い止めるための堤防であった。武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の横見郡北下砂村の
項(6巻、p.440)に”堤”と記されたもの及び丸貫村の項(6巻、p.438)に
”内囲堤”と記されたものが大工町堤であろう。
北下砂村:”用水に沿ひ村の西方中新井村界より連続し本村中央にて止む長81間(約147m)、
馬踏1間(天端幅が1.8m)、堤敷9尺(2.7m)、修繕費用は民に属す”、
丸貫村:”村の北方北下砂村界より南方古名村界に至る長425間(約774m)、馬踏8尺(2.4m)、
堤敷3間(5.5m)、修繕費用は官民に属す”とある。
(1)薬王寺の付近(西側から) 吉見町中新井 現在は農道となっている。現況の天端幅は約2.4mなので 農道へ改修のさいに拡幅されていると思われる。 そのさいに蛇行も直したのであろうか、古い堤防にしては 意外に真っ直ぐである。なお、薬王寺には 安政三年(1856)建立の石橋供養塔が残っている。 |
(2)吉見町北下砂〜丸貫(西側から) 写真(1)から東へ500mの地点。大工町堤を挟んで左(上流)が 北下砂、右(下流)が丸貫。この付近は堤防の形が はっきりと残っている。天端幅は約2.8m、比高は約1.5m。 奥に見えるのが荒川の右岸堤防。 |
(3)荒川の右岸堤防上から東側を撮影 写真(2)から東へ300mの地点。 遠くから見ると、大工町堤はかなり蛇行して 築かれているのがわかる。 大工町堤に沿って流れるのは、塩田町堀(農業用水路)。 かつては用排水兼用だったが、現在は排水専用だそうだ。 塩田町堀は文覚川の右岸へ合流する。文覚川は写真の 手前を荒川の右岸堤防の裾に沿って流れる。 現在の荒川の堤防が築かれるまでは、大工町堤は 堤外(河川敷内)へ行くための耕作道として使われていたという。 荒川の堤防上から堤外を眺めると、大工町堤の延長と 思われる蛇行した農道(跡)が確認できる。 なお、この付近には大工町以外にも、塩田町、宮の町、 大根町といった町が付けられた小字がある。 それらは集落の単位を表すのではなく、中世の土地区画制度 (例えば条里制)の名残りである可能性が高い。 |