吉見領囲堤 [荒川のページ一覧]
撮影地:埼玉県比企郡吉見町
江戸時代初期におこなわれた荒川の瀬替え(1629年)によって、新たに荒川の右岸となった、
吉見領や川島領では以前よりも洪水量が増加した。その洪水から集落を守るために、
大規模な堤防の建設が藩主の命でおこなわれた。川島領では慶長年間(1610年前後)に
伊奈忠次によって囲堤(かこみてい)が築かれ、慶安年間(1650年前後)には川越藩主、
松平信綱によって大規模な囲堤が築かれている(いわゆる川島領囲堤)。
吉見領にも元和年間(1620年前後)に、伊奈忠次によって囲堤が築かれている。
新編武蔵風土記稿の横見郡蚊斗谷村に”囲堤:荒川水除ノ為ニ設く、中略、高一丈余”とある。
荒川の氾濫から横見郡(現在の吉見町)を守るための高さ約3mの堤防である。
これが吉見領囲堤や大囲堤、惣囲堤と呼ばれる輪中堤防であり、和田吉野川、荒川、
市野川の洪水から集落を守ってきた。吉見領の西側には丘陵地帯が位置するので
堤防こそないが、それ以外の三方向は堤防で囲まれたのである。
吉見町の桜堤公園はこの旧堤防、吉見領囲堤の一部(東端)を公園化したものである。
桜堤公園はかつては荒川の右岸堤防であった。桜堤公園の南端から西へと
延びる市野川の左岸堤防(台山堤)も、吉見領囲堤の一部(南端)である。
吉見町の輪中堤防は大里郡大里町にも飛び地として残っている(横手堤:荒川に架かる大芦橋の
右岸アプローチ部)。これは荒川と和田吉野川からの洪水の流下を防ぐための控堤であり、
現在の荒川の右岸堤防から直角方向に西側へ向かって約1Km続く。いわば北方の防御壁である。
かつて和田吉野川は、大芦橋の上流付近の大里町玉造で荒川へ合流していた。
荒川が増水すると洪水流は標高の低い和田吉野川の流域へと逆流を始め、和田吉野川の右岸堤防を
破堤させることが多かった。こうなると洪水流は一気に、吉見町へ向かって押し寄せてくるわけである。
横手堤はこの時に、洪水流が吉見町へ進入してくるのを阻止するための堤防だった。
なお、吉見領は大囲堤の中に、村囲いのための堤防が数多く設けられていたことが特異である。
例として中新井から北下砂にかけての大工町堤、江綱から前河内にかけての縦土堤が挙げられる。
江綱、久保田、和名にかけて、山の根堤というのも存在したのだが、これは村囲堤というよりも
大囲堤の延長であり、西側の増強とも考えられる。現在、山の根堤は痕跡がなく、所在がはっきりしない。
これらの村囲堤は大囲堤が不完全だったので、その機能を補完するために設けられたと思われる。
洪水に対して、このように本堤と控堤によって二重に防御する形態は、二線堤とも呼ばれる。
現代のような大規模な堤防を築くことは困難であり、しかも本堤が頻繁に破堤した時代では、
二線堤は最善の防御策だった。その根底には”堤防は壊れる”という諦念もあったことだろう。
高規格な堤防を築くことによって洪水の氾濫を完全に防ぐのではなく、仮に堤防が決壊しても、
ある程度の被害は受容し、最小限の被害に食い止めようという思想である。
(1)荒川の右岸堤防(下流から) 吉見町丸貫(まるぬき) 糠田橋から800m下流の付近。堤防の裏法裾には コンクリート基礎の上に6体の石仏(弁財天、六地蔵、 馬頭観音、巡礼供養塔)が並ぶ。そのうち、3体が道標を 兼ねているので、堤外地などから移築されたのだろう。 道標には、まつやま道、よしみくわんおん道などと 記されている。寛政八年(1796)の巡礼塔には丸貫村、 古名村、安永ニ年(1773)の弁財天には丸貫 古名講中と ある。なお、ここから800m西の中新井〜北下砂には、 控堤(村囲堤)、大工町堤の跡が農道として残っている。 |
(2)荒川自転車道(上流右岸から) 吉見町古名新田(こみょうしんでん) 御成橋の付近。 荒川自転車道は歩行者、自転車専用道であり、 正式名は、さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道。 さいたま市と滑川町の森林公園を結ぶ総延長46kmの サイクリングロードである。堤防に設けられた道路からは 荒川の雄大な流れと豊かな田園風景が展望できる。 ロードバイクが風を切って疾走する。 なお、糠田橋から御成橋までの約900mの区間、 荒川の右岸堤防は県道76号線を兼ねている。 |
(3)新旧の堤防(上流から) 吉見町大和田 御成橋から800m下流。荒川自転車道を下流へ進むと、 吉見町の桜堤公園へ辿り着く。左が荒川の右岸堤防、 右が桜堤公園。新旧の堤防の高さの違いが、はっきりと わかる。桜堤公園の入口付近には、[高低基標 四六 埼玉縣]と記された測量の古い標石が残っている。 荒川の近代改修の際に設置されたものだろう。 |
(4)緑陰の吉見町さくら堤公園 吉見町蚊斗谷(かばかりや)(注1) さくら堤公園は延長約2Km(荒川自転車道の一部でもある)。 旧堤防の天端は[ふるさと歩道]として遊歩道化されている。 ただし、遊歩道は町道との交差箇所が多いので、車輌の 横断もある。旧堤防には吉見八景にも選ばれている見事な 桜並木(約600本)が続く。この周辺には桜の名所として 市野川の桜堤、北本市の桜堤(城ヶ谷堤)もある。 |
(5)さくら堤公園の遠景(右岸から) 吉見町荒子(あらこ) さくら堤の東側(写真右方向)には旧荒川が残っている。 旧荒川とさくら堤に挟まれた飯島新田、高尾新田、 大和田などの地区は昭和初期に実施された荒川の 近代改修によって、堤内となったのだが、現在でも 年配の人は堤外と呼ぶことがある(注2)。 堤外には水防を祈願した水神宮などが多く残っている。 さくら堤の裾を流れるのは、文覚排水路(文覚川)。 水路は深く掘り込まれ、コンクリート護岸が施されている。 文覚排水路は大芦橋の下流右岸(荒川、大里郡大里町 小八林)を起点とする横見第一用水の流末である。 横見第一用水は、旧吉見領五ケ村の農業用水を 送水するので、五ケ村堀とも呼ばれた。 横見第一用水の起点には、大正時代に建設された、 石造りの水門が設けられている。 |
(6)市野川の付近 吉見町大串 (5)から400m南側の地点。県道33号東松山桶川線から 市野川を望む。県道33号線に並行して、東から西へ (写真の左から右へ)と続くのが、市野川の左岸堤防。 これもかつての吉見領囲堤である。県道33号線を東へ 1.7Km(写真の左側方向)進むと、荒川の荒井橋。 写真の手前に見えるのが吉見樋管(吉見排水機場の樋管)、 奥が市野川の右岸堤防である。吉見樋管は文覚門樋 (文覚排水路にあった逆流防止樋門)と台山樋管(台山排水路に あった排水樋管)を合併した施設。吉見領は周囲が堤防で 囲まれているので、内水(降った雨)の自然排水が困難だった。 そのため、古い時代から吉見領囲堤には内水を市野川へ 落とすための排水樋管が、随所に設けられていた(注3)。 吉見樋管から市野川までは中堀と呼ばれる堤外水路(排水路)が 設けられている。中堀は市野川の松永橋の上流へ合流する。 |
(注1)蚊斗谷(かばかりや)は難読地名だが、その名前の由来も
理解するのが困難である。新編武蔵風土記稿によれば、元々、蒲(ガマ)が
多い原野だったが、それを刈り取って開墾したので
蒲刈谷(読みはガマカリヤだろうか)と呼ぶようになり、
後に表記を蚊斗谷へ改めたのだという。
(注2)堤外と堤内:堤防に挟まれた河川区域(川が流れている方)が
堤外(ていがい)、住居等がある生活区域が堤内(ていない)。
古い歴史を持ち(江戸時代の史料にも使われている)、なおかつ
現在でも使われている土木用語だ。私達の生活空間は堤内である。
日常感覚にそぐわないと感じるかもしれないが、吉見領のように
周囲を堤防で囲まれた輪中地帯を例にとれば、納得できる。
つまり、堤防で囲まれた内側に居住することは、洪水に対して
安全だが、堤防の外側は危険が増す。
吉見町の旧堤外には、飯島新田、高尾新田など、新田と
冠された地区が多いが、これらは寛文年間(1661-1672)に
開発され村が成立したようである(埼玉県史通史編3、p.571)。
荒川の瀬替えが寛永六年(1629)だから、時期的にかなり早い。
これらの新田村は河川敷の中に立地するが、荒川からの取水は
不可能だったので、農地は主に畑だった。畑と宅地を水害から
守るために、河川敷内には畑囲み堤と呼ばれる堤防が築かれていた。
これは現在、荒川の中下流に多く見られる横堤の前身である
なお、堤外と堤内という2つの居住区間が堤防を隔てて
存在すると、双方を結ぶ生活道路が必要となる。
そのために、堤防を分断して設けられるのが陸閘などである。
陸閘は生活道路と水門(治水施設)を兼ねている。
吉見町荒子〜蚊斗谷では堤内と堤外を結ぶ町道が、吉見領囲堤を
分断しているが、そこには未だに陸閘が設けられている。
(注3)吉見樋管の北側にある稲荷神社付近の湿地は、荒川の
洪水による押堀の跡地である。押堀(おっぽり)は切れ所沼とも
呼ばれ、堤防が決壊したさいに、洪水流が堤防付近の土地を
洗掘することで形成された川跡湖のこと。
この付近では川島町の鳥羽井沼も押堀である。
稲荷神社には石橋供養塔、弁財天など、水に関する石仏が
数多く祀られている。現在では、押堀の跡へ文覚排水路、内谷堀排水路、
台山排水路を合流させ、旧吉見領の排水は吉見樋管を経由して、
市野川へ落されている。市野川の水位が高く、自然排水が
困難な場合には、ポンプによる強制排水が行なわれる。
戻る:[河川の一覧] 荒川:[上流へ][下流へ] [荒川周辺の水神]
関連項目:[文覚川][大工町堤][縦土堤] [荒川の御成橋][市野川の松永橋] [埼玉県の古い堤防]