荒川 - 糠田橋から御成橋 [荒川のページ一覧]
撮影地:左岸:埼玉県鴻巣市(こうのす)、右岸:比企郡吉見町
(1)荒川の旧河道(上流から) 鴻巣市糠田〜吉見町明秋 糠田橋から撮影。現在の河道の南側(右岸)には 旧荒川の跡が2Km以上に渡って残っている。旧荒川は 江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、 昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間、 荒川の流路だった。旧荒川は大きく蛇行し、水際には 鬱蒼とした河畔林が形成されている。 鴻巣市と吉見町の行政界は荒川ではなく旧荒川である。 なお糠田橋の右岸には控堤、大工町堤も残っている。 |
(2)明秋湖(下流から) 吉見町明秋 写真上部が糠田橋。旧荒川の最上流部は川幅も広く、 形態的には沼のようなので、明秋湖と呼ばれている。 釣りの名所だそうで、付近には駐車場があり、 岸辺には数多くのデッキが設けられている。 近代改修以前は旧荒川の河川敷には、広大な河原が 形成されていて、砂利の採掘(それを生業とする人々がいた)が 盛んに行なわれていたようだが、今はその面影もない。 河川敷には砂利よりも砂が多く分布する。 |
(3)糠田橋から見た荒川(上流から) 鴻巣市糠田 こちらは昭和初期に開削された人工水路。糠田橋の 上流では約600mまで狭くなった堤防間の幅は糠田橋の 下流から再び広くなり、この付近では2Km以上もある。 荒川は支川が合流した後の下流には、決まって狭窄部が 設けられている。もっとも、これは荒川の近代改修で 新規に計画されたわけでなく、江戸時代からの 踏襲である。この付近の河川敷(堤外地)には農地が 広がっているが、意外に水田(注1)が多い。稲刈りは 台風の季節が来る前の8月中に済ませてしまうそうだ。 |
(4)渡内糠田排水機場の樋管 鴻巣市糠田 荒川の中流部では、左岸から合流する支川(一級河川や 準用河川)は少ないが、中小の都市排水路が数多く合流している。 そのため、左岸側では写真のような排水樋管が随所で見られる。 渡内糠田排水機場には足立北部一号・二号排水路からの 水が集められて、荒川に放流されている。足立北部排水路は 鴻巣市の一部と吹上町からの排水路。樋管で堤防を横断した後は、 河川敷に設けられた千間堀と呼ばれる長さ約1Kmの堤外水路で、 荒川の河道まで導水している。なお、排水機場から東へ250mの 堤防尻には田間宮村の道路元標(大正14年設置)が残っている。 |
(5)大間築堤碑(左岸上流から) 鴻巣市大間 (4)から900m下流。鴻巣西中学校西側の左岸堤防の 中段に設けられている。明治三十年(1897)建立、 題字は近衛篤麿、撰文が清浦奎吾(当時は司法大臣、 後に内閣総理大臣)。明治8年(1875)に民間人によって 建設された大間堤を記念したもの。堤防の規模は 長さ508間(914m)、高さ1丈3尺(4.2m)だったと 記されている。当時の荒川の堤防は現在のように 連続堤防ではなく、水防重点地区に部分的に設けられた ので、堤防にも名前があった。築堤は地域住民によって |
(6)行人樋管の付近 鴻巣市大間 大間築堤碑から600m下流、大間と滝馬室の境界付近。 写真の奥に見える赤い橋は御成橋。大間堤は昭和22年(1947)の カスリーン台風によって、行人樋管の付近で決壊している。 ここから100m下流には、その災害復旧記念碑が建てられている。 この付近では荒川の左岸堤防は、住宅地の側(河岸段丘)へ 山付けされ(山付堤防)、自然消滅する形態になっている。 段丘の周辺には崖や谷地も見られ、地形は変化に富む。 なお、ここから400m北、鴻巣西中学校と鴻巣高校の間に 位置する城山(山林)は源経基の館跡だとされている(注2)。 |
(注1)かつて埼玉県は麦の生産高が日本一だったことがある。
特に荒川沿線の熊谷市から上尾市にかけての大麦は、生産量が
多いだけでなく質も高く、中山道麦として名を馳せていたという。
ただし、麦は河川敷ではなく荒川沿線の台地上で栽培されていた。
荒川の河川敷には桑畑が多かったようだ。
(注2)城山は源経基(清和源氏の祖)が、天慶元年(938)に築いた館の跡だという。
埼玉県で最も古い館跡の一つだとして、埼玉県指定史跡に指定されている。
現在はほとんどが山林だが、それでも土塁と堀の跡がはっきりと残っているそうだ。
城山にはスギやヒノキからなる見事な森が形成されていて、
0.57haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。
鴻巣市は武蔵武士発祥の地でもあり、箕田地区には箕田氏三代(嵯峨源氏)の
館跡も残る。箕田八幡宮(氷川八幡神社)には、そのことを後世に伝えようと
宝暦九年(1759)に建立された箕田碑もある。碑の裏面には安永七年(1778)に、
渡辺綱の辞世の歌と共に松尾芭蕉の句が追刻されている。
箕田碑は芭蕉句碑の一種ともいえる。
蝶の飛 ばかり野中の 日かげ哉
なお、箕田八幡宮の境内には三士塚と呼ばれる円墳があるが、
これも源仕に関連があるとされている。