佃堤 志木市指定文化財

 
所在地:新河岸川の左岸、埼玉県志木市上宗岡二丁目

 
佃堤(注)とは新河岸川の左岸に残る控堤。新河岸川の本堤(左岸堤防)に対して直角に、
 堤内地(住宅地の側)に向かって設けられている。上流の南畑村(現.富士見市下南畑)方面からの
 洪水流から宗岡村を守るために、江戸時代(1650年頃)に築かれた。
 建設工事を担当したのは、宗岡村領主の家臣だった白井武左衛門だとされている。
 下ノ氷川神社(下宗岡四丁目)の境内には、4基の水神宮の脇に、白井氏を顕彰した白井氏治水碑がある。
 かつては延長が約1.2Kmにも及んだそうだが、現在は国道463号線の南側から
 富士見市との境界に沿って、宗岡中学校の北側付近までの約300mが残っているのみだ。

 
宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれた低地であり、昔は頻繁に水害にあっていたので、それを防ぐために
 江戸時代には村の周囲を堤防で囲んで洪水を防いでいた。いわゆる、宗岡村の大囲堤である。
 志木市宗岡地区には、その名残である名前の付いた堤防が、佃堤以外にもあちこちに残っている。
 例えば下之谷堤、新田堤などである。大囲堤によって宗岡村は輪中となっていたわけで、
 その北側の砦が佃堤だった。しかし、村の周囲を堤防で囲んでいると、内水(降った雨)の排水が
 不可能となる。そのため、堤防には内水を新河岸川へ排除するための圦樋(排水樋管)が、
 随所に設けられていた。これらの圦樋は江戸時代は木製であったが、明治期には当時最先端の
 素材だった煉瓦で改良されている。なによりも頑丈であることが要求されたからだ。
 下之谷堤には大小合併門樋と北美圦樋、新田堤には新田圦樋と籠嶌樋管(石造り)が残っている。

 
なお、旧宗岡村の旧家は屋敷の形態が、水塚となっている家が多い。
 水塚(水屋)とは水害常襲地に特有の建物で、床下浸水を防ぐために、非常に高く
 盛土した上に(場合によってさらに石垣を築き)建物が建てられている。
 昔は軒に揚舟(水害予備船)が括り付けられていた。水塚と揚舟は水害に対して、
 その被害を最小限に食い止めるための、古来からの自己防衛手段である

(注)佃堤は築田堤とも呼ばれていたようで、武蔵国郡村誌の宗岡村(4巻、p.288)に記述がある。
 諸元は次のとおり:長さ675間(約1220m)、馬踏3尺5寸(天端幅が約1.1m)、
 高5尺乃至8尺5寸(1.5〜2.6m)、修繕費用は官に属す

 佃堤は南畑村と宗岡村の間に位置するために、その高さや維持管理を巡って、出入り(紛争)が
 絶えなかった。昭和初期に新河岸川と荒川の近代改修が実施されて、この付近の水害の頻度が
 減るまで、小さな紛争は続いていた。佃堤が高くしかも強固であれば、下流の宗岡村は洪水の時に
 安全だが、そうなると上流の南畑村では、洪水が下流へ流れないので湛水被害を受けることになる。
 上下流の村人が集まり、堤防の所在をめぐり、口論や小競り合いを繰り広げたことから、
 このような堤防は論所堤と呼ばれた。

 江戸時代には南畑村が宗岡村を相手取り、訴訟を起こした記録も残っている(埼玉県史 資料編13、p.827)
 天明六年(1786)の洪水のさいに、築田堤(佃堤)の低い箇所が決壊したのだが、
 その修復工事のさいに、宗岡村が堤防の高さを以前よりも高く築いたというのが事の発端である。
 南畑村はこれを不当とし、上置(堤防を高くするために盛った土)を撤去し、堤防を旧来の高さに
 戻すように宗岡村に抗議したが聞き入れられなかった。
 そこで南畑村は代官所に訴え出て、この争いは天明七年(1787)七月から寛政元年(1789)六月まで続いた。
 最終的には、南畑村の言い分が通ったようで、上置を削り取り、定杭(堤防の高さを示す基準点)を
 設置することで決着している。このような杭は一般的に、論所堤の御定杭と呼ばれ、上下流の村の
 同意のもとで設けられる。堤防の基準高を規定し、無駄な争いを抑止するのが目的である。

 佃堤 宗岡中学校の北側付近
↑佃堤 宗岡中学校の北側付近(南西から撮影)
 佃堤はこの地点で北側が木曽目堤(富士見市側の
 新河岸川左岸堤防)、南側が下之谷堤(志木市側の
 新河岸川左岸堤防)にすり付いている。佃堤の天端には
 RC管が敷設されているが、これを使って最近まで
 農業用水を送水していたそうだ。
   佃堤 国道463号線の付近
  ↑佃堤 国道463号線の付近(南西から撮影)
   写真の奥がさいたま所沢バイパス。佃堤はバイパスに沿って
   荒川の羽根倉橋の方向へ延びていた。
   地形に合わせて盛土したためだろう、堤防は直線ではなく、
   適度に蛇行している。使われなくなって維持管理が
   なされていないので、天端は風化して丸みを帯びている。

 下之谷堤
↑下之谷堤 上宗岡1丁目〜5丁目(堤内から)
 下之谷堤に設けられているのが大小合併門(1898年竣工)
 市民総合センターが建っている一帯は、かつての堤外地。

   
新田堤
  ↑新田堤 下宗岡4丁目(堤外から)
   新田堤に設けられているのが、新田圦樋(1900年竣工)
   新田堤には荒川からの逆流を防ぐ目的もあった。

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志木市の煉瓦樋管:[大小合併門樋] [北美圦樋] [新田圦樋] [いろは樋] [籠嶌樋管
富士見市の煉瓦樋管:[水越門樋] [山形樋管] [乗越門樋]