いろは樋 -
志木市指定文化財 -
所在地:志木市中宗岡、新河岸川 志木市本町、柳瀬川 建設:1898〜1903年
いろは樋の起源は、万治二年(1662)に新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋(長さ260m!の
木製の樋)である(注)。新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、
度重なる水害に窮するばかりでなく、恒常的な農業用水の不足にも悩まされていた。
いろは樋は、それまで新河岸川に無効放流されていた野火止用水の流末(余水)を、
新河岸川を越えて宗岡地区に送水するために設けられた構造物である。
ちなみに野火止用水は伊豆殿堀とも称されるが、これは開削者の松平伊豆守信綱(川越城主)に
由来する。その後、いろは樋には数度の補修や改修が行なわれ、1898〜1903年には鉄製のパイプで
新河岸川の下を潜る方式(伏越)に変更された。この改修では呑口と吐口には煉瓦造りの
強固な水槽が設置された。これがいわゆる、いろは樋の大桝である。
江戸時代に木製の掛樋(水路橋)が建設された例は、埼玉県では瓦葺掛樋(見沼代用水〜綾瀬川、
蓮田市〜上尾市)にも見られる。明治時代になると、両施設とも煉瓦造りで改築されているが、
いろは樋は構造が伏越に変更されている。一方、瓦葺掛樋は当初のままの水路橋(橋台は煉瓦造り)であった。
いろは樋の場合、横断地点の新河岸川の川幅はかなり広いので、送水方式としては水路橋よりも
伏越の方が妥当な選択である。江戸時代に伏越ではなく水路橋が架けられたのは、当時の土木材料と
施工技術で実現可能な送水方式としては、水路橋しか選択肢がなかったからである。
明治時代になると、土木技術の進歩によって、新河岸川の川底に長さ200m以上の伏越を
建設することが可能になったのである。
農業用水路として使われてきた野火止用水であるが、新座市から志木市の区間は暗渠に改修され、
下水路になってしまった。そして、1965年、いろは樋はその役割を終えた。
現在は、中宗岡一丁目(いろは橋近くの新河岸川の左岸堤防脇)と
本町二丁目(栄橋近くの柳瀬川の右岸堤防脇)に、旧施設の一部が史跡として保存されている。
なお、いろは樋が建設された当時、新河岸川の左岸は入間郡宗岡村、右岸は北足立郡志木町だった。
大正時代末期に設置された宗岡村の道路元標と志木町の道路元標が今も残っている。
↑いろは樋の跡(中宗岡側) 伏せ越しに使われた鉄管と煉瓦製の水槽。鉄管は長さ4m、 外径は大きい方が54cm、小さい方が29cm。材質は 鋳鉄だろうか。いろは樋には、効率よく安全に送水するため、 空気抜きの管を設けたり、送水管の口径を変化させる等の 工夫がなされていた。 水槽天端の笠石には竣工年が刻まれている(1903年)。 |
↑いろは樋の大桝(中宗岡側) 煉瓦製の吐水槽で、外径は2.6mの正方形。 内径は1.5mの正方形で、深さ5.3m、 現在は、地面からは0.9m突出している。 呑・吐口の水位差は2.8mあり、 木製の水槽では強度が不足したそうだ。 機能的には調圧水槽(サージタンク)である。 |
←いろは樋の大桝(本町側) 新河岸川の右岸側である。川を挟んだ両岸の地形の 違いがはっきりわかる。左岸は荒川が形成した低地(後背湿地)、 右岸は洪積台地(武蔵野台地)となっている。 大桝は住宅と住宅のわずかな隙間に残されている。 こちら側が呑口(上流側)である。 水槽(イギリス積み)は地面から2mくらい突出しているので、 笠石や隅石の様子がよくわかる。石材は安山岩のようである。 使われている煉瓦は色が不均一で、特に小口面は色が薄い。 水槽の煉瓦壁と鋼管の取り付け部には、石造りの銘板が あり、竣工年が刻まれている(1898年)。 大枡は県税の補助を得て、宗岡村によって建設された。 埼玉県の行政文書(土木補助工事:明2482、明2490)に、 宗岡村地内 新河岸川通 鉄管改良工事の記録が残っている。 野火止用水ではなく、玉川上水分水路宗岡村用水路と記されている。 しかし、不思議なことに鋼管には東京都の 紋章(旧・東京市のマーク)と思われる刻印が確認できる。 (補足)いろは樋の遺構は、志木市にもう一箇所残っている。 郷土資料館の敷地内に、鉄管が展示されている。 昭和54年に柳瀬川の改修中に、川底から見つかったものだと いうから、いろは樋撤去のさいに破棄されたのだろう。 長さ2.1m、内径60cm、[明治二八 S006]の刻印がある。 |
(注)文政年間(1830年頃)の調査を基に編纂された、新編武蔵風土記稿の
入間郡宗岡村(8巻、p.275)に”万治二年 玉川上水の分水を、新座郡引又町より
掛樋をもて新河岸川の上を通じ、村内及此辺所々の水田に沃げり、
其掛樋の接合せし数四十八あれば、伊呂波樋とは呼べり”とある。
掛樋(かけひ、かけとい)は、筧とも表記することがあるが、水路橋のことである。
48スパンだったので、いろは四十八文字にちなんで、伊呂波樋と呼ばれた。
江戸時代に宗岡村を知行していたのは旗木の岡部氏だった。
万治二年に架けられた最初のいろは樋は、その家臣である白井武左衛門によって
建設された。宗岡村の村囲い堤である佃堤を築いたのも白井氏であり、
宗岡村の利水と治水に偉業を成した。下ノ氷川神社(下宗岡四丁目)の境内には
4基の水神宮の脇に、白井氏を顕彰した白井氏治水碑がある。