籠嶌樋管 (かごしま?)
所在地:志木市下宗岡4丁目、新河岸川(旧左岸堤防) 建設:1895年
形式:石造りアーチ(一連)、樋管長 15m、樋管幅 1.6m
籠嶌樋管は宗岡第二中学校の北側にある。埼玉県に現存する唯一の石造りアーチ型樋管だ。
江戸時代から存在した木造樋管を、明治28年(1895)に入間郡宗岡村が埼玉県の技術指導と
県税の補助(町村土木補助費)を得て、石造りで改造したものである。
樋管の工事と同時に樋管へ接続する籠嶌悪水路(排水路)の開削工事も行われているので、
単に樋管の改良工事にとどまらず、総合的な排水改良工事だった可能性が高い。
樋管の総工事費は2,229円、内894円が地元からの寄付金、1,335円が地方税の補助金で
あった(埼玉県行政文書 明1802-50)。補助金率は約60%と高率である。
樋管の規模は長八間(14.4m)、幅五尺四寸(1.62m)、使われている石材は
2,394枚(堅石:2,364枚、本小松石:30枚)、延べ957人の石工が作業をした。
堅石とは安山岩系の石材で美観はないが、耐久性と強度に優れる。
基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを
打設したものである。基礎杭には長さ二間半(4.5m)、直径五寸(15cm)の松丸太が92本使われている。
杭配置の間隔は1m程度、捨コンクリートの厚さは30cm程度だと思われる。
籠嶌樋管の籠は篭の正字、嶌は島の俗字であるから、現代の表記だと篭島になる。
籠嶋とは地名であり、この付近はかつて宗岡村新田大字籠嶋であった。
武蔵国郡村誌(記述内容は明治8年の調査を基にしている)の入間郡宗岡村の項には、
”籠嶋圦樋:内法幅四尺五寸(1.35m)、高三尺(0.9m)、長八間(14.4m)、村の南方、新河岸川除堤防にあり”と
記されている。この木造樋管の規模は、現在残る石造り樋管とほぼ同じである。
当時は現在のように連続堤防が一般的ではなく、堤防は重要度(氾濫の危険度)が高い箇所にのみ
部分的に設けられ、川除堤防などと称し、堤防自体に名前が付けられていた。
新河岸川は大正11年(1922)に改修工事が始まるまでは、北足立郡内間木村(現.朝霞市内間木)で、
荒川に合流していた。籠嶌樋管のある志木市下宗岡4丁目は、新河岸川の旧左岸堤防を挟んで
朝霞市内間木と接する。籠嶌樋管の南側、下ノ氷川神社の付近には新河岸川の旧流路跡が
荒地となって残っている。旧流路は河川勾配が緩く、激しく蛇行している。
このため、志木市の宗岡地区(新河岸川の左岸)は、昔から荒川と新河岸川の水害に悩まされ、
江戸時代には8ケ所に悪水吐圦樋が設けられていたそうである。
水塚(水屋)の形態をとる旧家が多く、下ノ氷川神社には4基もの水神宮が祀られている。
追補:籠嶌樋管は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
←籠嶌樋管(川表) 河川改修で新河岸川の流路が変えられたため、 籠嶌樋管は新河岸川左岸から500mも離れた処に残る。 荒川の秋ヶ瀬橋まで800m、秋ヶ瀬取水堰まで1.2kmの地点。 ゲートの戸当たりは、コンクリートに改修されている。 現在はスライドゲートが取り付けられているが、 数年前まではマイターゲート(観音開き)だったそうだ。 竣功当初のゲートは木製の観音戸であり、材料には水に強く 腐食しにくい欅(ケヤキ)や檜(ヒノキ)が使われていた。 翼壁天端の笠石は一枚板(石)である。 なお、出来形帳には材料としてトロが計上されているので、 樋管本体は空石積みではなく、モルタルが 充填された石積みだと思われる。 また、基礎は土台木と称されるコンクリート造りである。 |
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籠嶌樋管(川裏)→ アーチの石組みは、五角形の切石積みである。 これは西洋の煉瓦・石造り建築に顕著な方式で、 楯状迫石やくさび石とも呼ばれ、その起源は 古代ローマにまで遡る。日本古来の 石橋(九州地方に多い)のアーチ組みとは 明らかに違うものである。 埼玉県の樋門では切石積みは、非常に珍しく、 現存するのは、この樋門のみではないだろうか。 (過去には見沼代用水元圦が、この方式であった) 石橋であるが、寺坂橋(埼玉県本庄市、1889年建設)の アーチ組みは籠嶌樋管と似ていて、非常に興味深い。 天端の石材には竣工年が刻まれ、銘板を兼ねている。 天端には塔が設けられ(建設当初からかは不明)、 翼壁の天端には笠石が置かれている。 |
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