三軒家樋管 (その1)(その2)(その3)
所在地:川越市渋井、二間堀(新河岸川放水路左岸) 建設:1910年
長さ | 高さ | 天端幅 | 翼壁長 | 袖壁長 | 通水断面 | ゲート | その他 | 寸法の単位はm 巻尺または歩測による *は推定値 |
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川表 | 8 | 3.2 | 3.3 | 3.7 |
? | アーチ0.8* | 戸当り | ||
川裏 | 2.7 | 3.3 | 2.9 | 1.4 | アーチ2.2* | − |
設置場所と樋管名:
三軒家樋管は立堀橋(新河岸川放水路)の左岸から北へ100m、県道56号さいたま上福岡所沢線の
脇に位置する。設置地点は川越市渋井、富士見市東大久保、上福岡市福岡の境界である。
樋管の名称は設置箇所の小字名である、入間郡南古谷村大字渋井字三軒家に由来する。
三軒家地区は北と東を富士見市東大久保、南を上福岡市福岡に囲まれている。
新河岸川放水路とは、新河岸川では流下しきれない洪水量を荒川に放流するために
建設されたもので、新河岸川とびん沼川(荒川の旧河道)を連絡した開水路であり、
路線は新河岸川の旧川流路跡に相当する。
建設までの経緯:
三軒家樋管は川越市久下戸、古市場、渋井地区の悪水(農業排水)を新河岸川へ
吐くための樋管で、近世から存在するようである。三軒家樋管に接続された悪水路は
二間堀と呼ばれていたが、この堀は悪水の流下をめぐって、江戸時代から上流の村々と
下流の東大久保村(現.富士見市)との間で紛争が絶えなかった。
明治22年(1889)には堀の維持管理に関して傷害事件が勃発し、
南古谷村(旧.渋井村など)と南畑村(旧.東大久保村など)との間で裁判沙汰にまで
発展している(→富士見市史 資料編5 近代、p.301)。
このような背景があったためか、重要な構造物ではあるが三軒家樋管は、明治時代後半まで
木造のままであった。迂闊に改築すると、新たな火種となるのを恐れたからだろうか。
半永久的な構造物へと改築されるのは、明治36年(1903)のことで、県税の補助を得て、
町村土木工事として、樋管を木造から石造りへと伏せ替えた記録が残っている(埼玉県行政文書 明2497-41)。
しかし、石造りの樋管は施工方法に問題があったようで、意外にその寿命が短かった。
呑口と吐口の門数が異なる樋管:
現在の煉瓦樋管は明治43年竣功なので、石造りで改築してから、わずか7年後に煉瓦造りで
改築されたことになる。煉瓦樋管建設の前年、明治42年(1909)6月には、三軒家悪水路普通水利組合の
設立が認可されている。これは悪水路の維持管理のために設立された組合だが、
実質的には水害予防組合としての役割が大きかったと思われる。そして組合の事業として
建設されたのが三軒家樋管である。三軒家樋管は埼玉県に4基しか現存しない、呑口と吐口で
アーチの数が異なる樋管である。現存する樋管の中で最も最後に建設されている。
なお、竣工後の明治43年8月には、明治期最大の被害をもたらした大洪水が
埼玉県全域を襲うのだが、竣工間もない煉瓦樋管は難を免れている。
追補:三軒家樋管は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
↑三軒家樋管(川表から) 面壁の天端は損傷が激しく、 植物プランターの置き場になっている(^^;) 天端には現況よりも2〜3段多く煉瓦が積まれ、 装飾が施されていたようだ。 銘板は、1文字毎に石材を埋め込んである。 |
↑三軒家樋管(川裏から) こちら側が呑み口。アーチリングは煉瓦小口の4重巻き立て。 異形煉瓦は使われていない。樋管の内部から眺めると アーチ部の煉瓦は長手積み、側壁はイギリス積みで組まれている。 樋管部と翼壁の接合箇所には隅石(補強材)は使われていない。 写真左の翼壁の上には、なんとポンプ小屋が建てられている!。 |
←アーチと柱(吐き口の側) アーチリングは煉瓦小口の3重巻き立て。 柱とゲートの戸当りは石造り。 ゲートは角落しが設けられていたと思われる。 柱は先端に水切りを持つが、損傷が激しく、 ほとんどの水切りが欠落している。 建設当初の形態は、北河原用水元圦(行田市、1903年)と 似たものだったと思われる。 なお、樋管部分(アーチ内部)に使われている煉瓦は 面壁や側壁に比べて色が黒っぽい。 焼過煉瓦が使われている可能性が高い。 |